2022.2/25
第四夜 償い
『コスモス、ガーランドとはいったい……』
クリスタルを受け取った子どもは、蹲る女性に訊いていた。これまでに幾度か女性から説明を受けていたが、やはりわからない部分も多い。
聞けば聞くほどガーランドという男について、子どもは興味が絶えなかった。子どもならではの無垢な好奇心なのかもしれない。女性の躰を気遣いながらのものであったが、当の女性は青白い顔をにこりと笑ませてきた。
『なにを……知りたいのです』
力なく答える女性に、残された時間は少ない。それでも子どもの疑問には答えてあげようと、強ばった表情を見せつつも女性は優しく微笑んだ。
『どうしてただのニンゲンが、カオスとよばれるものになったのだ? なにかゲンインとなるものがあったのか』
『それは……』
女性──コスモスは語る。幾度となく繰り返されてきた輪廻の経緯を。二千年の時を行き来する宿命に駆られた哀れな男の末路を。そのたびにガーランドはカオスとなり、また、カオスはガーランドへと戻っていった──。
『ふん。そのような世迷い言、信じるに値せぬ』
『おまえに信じてもらえなくても……私はっ、‼️』
くくっと嗤いながら崩れ落ちていくカオスに、赤い髪の青年は何度でも繰り返すように叫んでいた。しかし、青年の思いは虚しくもカオスに通じない。青年は涙を流し、カオスに最後の一撃を入れたのだった。
『どうして……このような結末にしかならないのか』
カオスを倒し、ガーランドの中に封じ込めた赤い髪の青年は、手に持ったクリスタルにひとつの願いを込めた。それは、到底叶うものではないものだった。
──私を、ガーランドの傍で寄り添えるようにできないだろうか。
救いたかった。だが、結末がこれでは、ガーランドも青年も、結局はなにも救えてはいない。ほかに方法がなかったのか。赤い髪の青年は、心の慟哭をクリスタルに隠さず吐露した。
クリスタルは呼応しなかった。できるはずもない。それはすなわち、ガーランドと同じ時と輪廻を繰り返すことになる。繰り返した先で、赤い髪の青年はガーランドと幾度となく戦う──のだと。
そうではない……と、青年は告げる。永劫の時を繰り返すガーランドに寄り添う方法として、赤い髪の青年はクリスタルにひとつの提示をした。闇から光のもとへ<ruby>誘<rt>いざな</rt></ruby>い、その先まで青年の手で導くことができるように、と。
すると、クリスタルは輝きはじめ、ひとりの女性をこの場に出した。
『あなた、は……?』
突然現れた女性に、赤い髪の青年は驚きながらも声をかける。とても美しく儚げな女性は、優美な表情で青年を見つめてきた。
『私はコスモス。あなたはウォーリアオブライトとして、闇の眷属となるのです』
『──……っ』
突拍子もない女性の言は、青年の望むものではなかった。当然だった。青年は闇の眷属となることを望むなど、ひと言も告げていない。
だが、コスモスは青年がなにかを言おうとする前に、胸に手のひらをあててきた。青年が装備していた赤い鎧は、女性の手のひらを中心として光りはじめた。その眩さは、クリスタルの輝きそのものだった。
『私はこのクリスタルとともに、あなたの傍にいます。この光がカオスを封じることができます。……ですが、闇の眷属となるあなたには難しいことでしょう。光はガーランドが持つことになります。あなたがこの光を取り戻したとき──カオスを完全に滅することができるはずです』
返す言葉もなく驚く青年を気にすることなく、コスモスは手のひらの光を強めた。すると、青年の赤い鎧の内側から一冊の書が出てきた。
『っ、これは?』
体内から鎧を通して書が出てきたことにも驚愕するが、それ以上のことが青年に起きている。青年は両の手のひらを見つめていた。青年の躰はみるみるうちに変化していく。赤かった髪は白く変化し、赤の鎧は対比するように青くなった。それだけではない。
青年だったはずが、少年に、次第に子どもへと姿が変わっていく。鎧は躰の大きさが合わず、青年だった子どもの周囲に落ちた。
カツーン……
最後に二本の長い角のついた青い兜が地に落ちた。青年だった子どもは呆然としている。燃えるような深紅の瞳は薄まった蒼氷の色に変化し、犬歯は鋭く尖っていた。
『これは……どういう』
『あなたが……望んだことです』
淡々と述べるコスモスに、青年はかっとなった。望んだものはこれではない! 言いたかったが、コスモスの表情を見て言えなくなった。青年から出した書を抱きしめるように胸にいだき、コスモスは涙を流している。
『こうするしか……方法がないのです。あなたがガーランドを救うと望んでくれたから、その言葉に甘えるしか……』
『コスモス……』
元々青年がクリスタルに願ったから、結果としてこうなった。それがクリスタルの出した答えだと言うのなら、青年は従うしかない。子どもになった青年は、もう一度コスモスに問いた。
『では、この姿の私はどうすればいい? このような姿では、なにもできない』
『私と、少し旅に出ましょう。このあたりを離れることはできませんが、しておきたいことはあります』
──はじまりと終わりは……あなたが見届けるのです。あなたも記憶をなくし、また、取り戻していくのですから。
そうして、子どもとコスモスはあてのない旅に出ることになった。そして、最後に告げたコスモスの言葉のとおり、子どもはこの旅のなかで、以前の記憶を少しずつなくしていくことになる。
月を少し経過させれば、子どもは赤い髪の青年だったころの記憶のほとんどを失ってしまっていた。呂律も子どもらしい舌足らずなものへと徐々に変わっていく。ただ、記憶は完全に忘却するわけではなく、当時のことを夢の中で追憶として視ることはあった。しかし、それをほかの誰か──コスモスに伝えるだけの語彙を子どもは知らないでいる。
コスモスとのこの旅は、闇の眷属として生きていくことになった赤い髪の青年──子どもに生きる知恵と力と方法を教えるためのものでもあった。
食料としての血液、これについては適合者と呼ばれる者から摂取すること。だが、今の子どもに血液は必要なかった。傍にコスモスがいて、光の力を子どもに与えてくれている。
闇の眷属となったのに、光を取り込むことに、子どもは違和感すら抱くことはなかった。なにも知らない──記憶を忘却させられた無垢な子どもは、コスモスに教えられるまま頭の片隅に覚えていた。<ruby>食料<rt>血液</rt></ruby>を得るには、適合者と身を繋ぐことを。それが……ガーランド〝だけ〟であることを──。
旅を続けるうちに、コスモスはコーネリアやその周辺の諸国から吸血鬼と疑いをかけられることになる。闇の眷属──吸血鬼となったのは子どものほうであるのだが、コスモスは否定をしなかった。時が戻されても、またゆっくりと成長していく子どもとは違い、クリスタルの化身でもあるコスモスは年齢を重ねることはない。それが、人間には異質に感じられたのだろう。
やがて、コスモスは人間の手にかかり、カオス神殿に封じられることになる。両手を魔力の込められた鎖で拘束され、祭壇に掲げられた闇のクリスタルにその力を奪われていった。
コスモスがカオス神殿に封じられたことで、周辺の魔物たちは凶暴化していった。光の力が封じられ、対して闇のクリスタルが力を持ったことが起因となる。コスモスから奪った力でもって闇の力を増幅させ、神殿内や混沌の森に巣食う魔物たちを使ってコーネリアや周辺諸国を襲わせていた。
皮肉なことにコスモスを捕らえた人間たちは、凶暴化した魔物たちに襲われて命を失った。これにより、コスモスがカオス神殿に囚われていること、闇のクリスタルに力を奪われていることを知る者は、誰もいなくなってしまった。
〝統率力のある魔物──カオス〟や〝カオス神殿に封じられた吸血鬼〟とは、このコスモスのことを示していた。実際はコスモスは吸血鬼ではないのだが、なにも知らない人間たちが勝手に勘違いをしたのだろう。噂はすぐに大きくなり、やがてコーネリアにも届くことになる。
時おりガーランドが隊を引き連れて、カオス神殿に向かうことがあった。子どもはその様子を遠くからすべて見ていた。もし、ガーランドがコスモスを見つけ、なにかしようものなら……。考えていたが、そういったことはなかった。
逆に神殿内に潜む魔物に隊は壊滅させられ、ガーランドだけが生き残って王城にどうにか戻る……といったことが繰り返されただけであった。しかし、元々はコスモスの持つ力が利用されたことで凶暴化した魔物ばかりであった。それらを倒すなかで、ガーランドは魔物から少しずつ光の力を吸収していく。そして使われた光の力──。
本来なら、ガーランドの持つ力ではなかった。コスモスが持っていた力を、ガーランドが魔物を通じて得たにすぎない。それでも、この神殿に乗り込めば闇のクリスタルにより記憶を奪われていたガーランドも、多少なりと思いだすことができた。
こういったことがあり、曖昧ではあったが、ガーランドは国王に報告することが可能になった。
「はっきりと姿を見たわけではないが、確かに統率者は存在する──」──と。
それからも、子どもは囚われたコスモスを取り戻す機会をずっと探っていた。しかし、神殿に近づくことはできない。凶暴化した魔物に襲われた哀れな人間たちを、子どもながらに弔ったり、介抱してやったりするのに時間をとられていたからだった。
それからしばらくして、子どもは機を見て囚われのコスモスを救出することに成功した。しかし、そのころにはコスモスは力を奪い尽くされ、身体は弱り果てていた。
子どもは自身の中にまだ残っていた光の力を使い、コスモスに与えようとした。けれど、それはコスモスによって止められてしまった。
子どもの持つ光の力は、やがて生きるために必要となる。コスモスからの供給が途絶えた今も、子どもには足りないほどなのに、ましてや、ここで使わせることはできない──と。コスモスは子どもにも伝わるように教えた。
それでは……と、子どもは旅の中止を訴えた。だが、コスモスは否定した。残り命の少なくなったコスモスの希望を叶えるためにも、子どもは旅を続けることにした。
旅の途中で、コスモスは命の終焉を自ら感じた。そのために最後の命の灯火を燃やし、子どもにクリスタルを、ガーランドには赤い髪の青年から出した光の源ともいえる書を、それぞれに手渡した。
子どもの──赤い髪の青年の望みを叶えてあげるために。子どもは大きく成長するまで、そのことを完全に忘れていた。否、記憶から忘却させられていた──。
■■■
『十五年、だったか……? なにも摂取していないのなら、それは腹も空くか』
ぼんやりと過去のことを夢に視ていた青年は、動くこともできずにひとりで呟いていた。
人間の食べ物を口にしたのもあの時──赤い髪の青年として生きていたとき以来で、コスモスと旅をしてからは全然だった。
闇の眷属となったことで、子どもは人間の衣食住や生活様式まで忘却してしまっていた。宿の存在も、人間がなにを食べているのかも。教えてくれる存在だったコスモスを喪ったのだから、子どもがわかるはずもない。
まだ完全に思いだせていないこともあるようで、青年の頭にはモヤのようなものがかかっている。すべてを思いだすには足りないものがあるのか、それからも青年は旅を続けていた。……というより、行くあてもなくこの付近をさまよっていた。
〝白の魔物〟として、魔物に襲われた人間たちを人知れず助けていたときだった。命尽きようとする者から、外套に施された紋章の刺繍のことを教えてもらった。ガーランドはコーネリアにいる、と。そのことで青年はこの地に来た。受け取った外套を返すこと、ガーランドを滅することだけは、子どもだった青年もしっかりと記憶している。
ガーランドと出逢った昨夜、瞳の色のことを訊かれたから、青年は自身が吸血鬼であると躊躇いながらも正直に答えた。ここで伝えていいのか。この場で戦うことになれば、この町はどうなるのか。ガーランドの隊が来てしまえば、いくら吸血鬼に有利な深夜とはいえ、青年も分が悪くなる。
それに、ガーランドとしてもいろいろと問われることもあるだろう。ガーランドのこれからをも心配して、青年なりに考えての結果だった。
けれど、これは青年が見誤った。ガーランドは吸血鬼を討伐対象と見なし、青年を蔑視してきた。だから青年もムキになって声を荒らげてしまったのだが。
ガーランドから宿屋のことを聞いて、あのときは赴くふりをするつもりだった。正義感の強いガーランドなら、吸血鬼である今の青年を人間の集まるところへ行かせることはないだろうと……打算があった。実際にガーランドは青年が宿へ行くことを赦さず、自身の家に招き入れてくれている。
コスモス亡きあとは、青年は光の供給はもちろんのこと、他者の血液だって一滴も口にはしていない。空腹に耐えきれなかった青年に、ガーランドが口移しで飲ませてくれたものが初めての食事となる。
ガーランドが青年とのやりとりで、どう思ってくれたのかは判断ができない。ただ、凌辱を受けた際の怒りようから、ガーランドとしても青年を蔑視ではなく、別の捉え方をしているようには思えた。
『そのことをすべて、素直に言っていれば……この結末は変わったのだろうか』
コスモスのいない世界は、青年にとっても不安でしかなかった。子どもの姿で独りだけ残されて、どうやって生きてきたのか……もう、青年にも思いだせない。
赤い髪をしていたころと同じくらいの年齢にまで戻ることができたことに、青年は思いを馳せる。あの時はガーランドを助けたいと……永劫の輪廻を繰り返す時の鎖を断ち切ってあげたいと──それだけを願ったはずだったのに。
変化したのは外見だけではなく、青年の内面にももたらしていたらしい。コスモスが亡くなる直接的な原因を作ったわけではないが、ガーランドの存在を青年は許せないはずだった。牙の抜けた〝ガーランド〟の状態のときに、青年は挑むつもりで近づいたのに。
それなのに、これだけのことをされたというのに、今となってはガーランドを憎むことはできない。あの時と同じように、救ってあげたいとすら思えている。
カオスになってしまった原因が青年にあるのなら、あそこまでガーランドを狂わせてしまったのなら、今度はこの命と引き換えにしてもよかった。
『あの書を、持って……きておくべきだったか』
幸いなことに、青年は書を見つけることができた。赤い髪の青年だった時分に、コスモスに体内から出されてしまったあの書を──。不思議な現象であったはずなのに、今となっては青年も理解ができている。
赤い髪の青年の持つ光の力を凝縮させたものを〝書〟として取りだし、それをガーランドに託す。こうすることで、ガーランドが元来持っている闇の部分は必然的に光の力で抑えられることになる。
ガーランドが読書好きなのは、この世界で知らない人はいないくらい有名だった。コスモスはそれを利用したのだろう。あの書はガーランドの家にそのまま置いてきてしまっているが、躰を回復させれば取りに行くことは可能になる。
凌辱を受けるなかで、青年は何度も書に記されていた言葉を口にした。それはガーランドに止められたが、確かに効果は見られた。ガーランドの家で唱えたときに発動しなかったのは、対象者が眼前にいないと効力を発揮しないのだろう。
そうでなければ、ガーランドは詠唱途中で止めるようなことはしない。魔法の詠唱失敗がなにを意味するかは、魔法を使役するガーランドが一番よく知っているはずなのだから。
だが、それにはまず……。
『躰を回復させること、か……』
今すぐは無理だが、少し休めば躰は動くようになる。ガーランドの気配の完全になくなった神殿の、ところどころ破れた赤い絨毯の上で、青年は伏したまま休むことにした。躰が動かないのだから、どうすることもできない。青年は小さな溜息を零した。
『──様、ウォーリア様』
『……君たち、どうして……ここに』
暗い回廊をくぐり抜け、数体の妖精はキラキラと小さな光をまといながら謁見の間へとやってきた。そして、妖精たちは息を呑んだ。カオス神殿の謁見の間にて、青年は伏していた。全裸で、しかも見るも無残な姿で──。
伏していた青年は顔を上げ、妖精たちの無事を確かめようとした。ここは妖精たちが簡単に立ち入れる場所ではない。危険を冒してまでやってきてくれたのだと……青年は声をかけようとした。だが、ふわふわと青年の周囲を飛び交う妖精たちに、それは止められてしまった。
『ウォーリア様、今……回復魔法を』
『……大丈夫だ。私のために……貴重な魔力を、くっ、』
立ち上がろうとしても、青年は動けない。両脚が完全に動かなかった。凌辱の際に高く上げられて麻痺していたのもあるが、足首の両方の腱を切られているのが理由として一番大きい。
青年の両の足首は時間が経っているのか、傷口の周辺は血液が乾いている。だが、塞がってはいない傷口からは、まだおびただしい量の出血をしていた。腱だけではなく、全身の至る箇所に擦り傷や引っかかれたような爪痕、それに内腿からもかなりの出血をしており、ここでなにが起きたのか……妖精たちの目にも明らかだった。
『ウォーリア様、せめてポーションだけでも……』
『……これは、私自身のせいだ。ガーランドを止めることができなかった……私の。言われていたのに。……コスモスよりこうなることを。ただ、なにが引き金になったのか……それだけはわからない。ガーランドは朝、確かに〝ガーランド〟だった。カオスの兆候すらなかったのに……』
青年の言動が原因だったにせよ、それだけでどうしてガーランドがあそこまで憤怒したのか。ガーランドの心情を知らない青年は嘆くばかりだった。
『ウォーリア様。それより、この場を離れましょう』
『……そうだな』
嘆いても、現状がどうにかなるわけでもない。悲嘆に沈むのは後まわしにして、青年は伏していた躰を動かそうとした。
『くうっ、』
ズキズキと痛む足首を押さえ、青年の柳眉は大きく歪む。下半身が特にだが、全身も同様に痛む。無理もない。最後のほうは石柱の破片の散らばる上で、拷問のような凌辱を受け続けた。尖った破片は青年の全身の皮膚を裂き、ガーランドにつけられた胸の傷以上に赤い腫れと出血をもたらしている。
苦痛に青年の視界が霞む。だが、気を失ってはいけない。なんとか生きて、活路を見いださなければ。
ガッ‼️
『ウォーリア様、なにを……⁉』
『光の属性の血液が適合するというのなら。私自身の唾液と血液も例外ではない……はず、だ』
私も光の属性を含んでいるのだから……。青年は下肢を伝う血液を指で拭いとり、ぺろりと舐めた。その中にはカオスの放ったものも含まれている。独特の鼻につく匂いを含む血液を何度も指で拭っては口に含む。
これ以上動けば躰に障るというのに、青年は我を忘れたかのようにこの行為に没頭していった。
そして……やがて、変化は現れた。
『ウォーリア様の傷が……』
青年の躰の出血は完全に止まった。しかし、切られた腱が治ったわけではない。青年は依然歩くこともままならず、這うようにしている。
『出血が治まればどうにでもなる。それより、カオスの気配が感じられないが……』
『ガーランドなら、コーネリアに戻っておられます』
『……っ⁉ そうか。だから、私の腱を切ったのか。私がここから出ることのないように』
くっ、悔しさから青年は唇を噛んでいた。ガーランドはここで青年を動けなくなるまで嬲り、そしてなに食わぬ顔でコーネリアに戻っていった。そのことに青年は気づき、何度も赤い絨毯の敷かれた石畳を叩いた。
だが、いつまでも悔やんではいられなかった。青年は石畳を叩くのをやめ、再び内腿を伝う血液を指で拭っては舐めとっていった。
『ウォーリア様、そのようなことをなさっては……』
『……わかっている。だが、今はこの方法しかない』
わかってほしい……。切に願う青年の悲痛な表情に、妖精たちは皆黙り込んでしまった。青年は少し身を動かすと、苦痛にまた眉を歪めた。はっはっと荒い吐息をつき、どうにか体勢を立てなおす。
『闇の眷属として、私が完全に闇に堕ちるか。それとも、ガーランドを救えるか……。どちらが早いかは、すべてガーランド次第だ』
青年の虹彩が深紅に輝く。妖精たちは気づいた。これからは闇が支配する……青年の時間でもある、と。
『ガーランドがコーネリアに向かったなら、私も追いかけよう。今度こそ、逃しはしない』
『ウォーリア様──』
『私は死なない。それに、ガーランドは私を殺すことはできない。それがわかっているからこそ、ガーランドは私を殺さずに残していった』
にこり、先まで瀕死の重傷を負っていたとは思えない壮絶な青年の笑みに、答えられる妖精はいなかった。それに、青年が言いきった物騒な言葉に、妖精の誰もが口を噤んだ。青年の当初の目的がなにも変わっていないことに、妖精たちは言葉なく、ふわふわと周囲を舞うように飛び交っている。
青年は周辺を見まわした。アンダーの上下はガーランドが引きちぎって、ボロボロの布きれと化している。これでは着ることも、身に巻くこともできない。仕方なく、青年は素肌の上から鎧を装備する。白い腰布だけはかろうじて使えるので、素脚を覆うようにまとう。
すべての装備を終えると、青年はポーチの中からクリスタルを取りだした。
クリスタルは淡く光っている。青年が強く願うと、大きな青い光を発した。ただ光っているだけではない。強い光が収まると、何事もなかったかのように周囲は暗くなった。
『外に出よう。待たせてはいけない』
『ウォーリア様……』
青年は壁伝いにずるずると脚を引きずらせながら、ゆっくりと歩いていく。鉄靴の隙間から血液がポタポタと零れ、靴の血痕が回廊に続いても、青年は歩き続けた。
青年を介助することもできず、妖精たちは周囲を見守りながら先導している。ここで魔物に襲われてしまったら、青年はひとたまりもない。
青年の腱が切り裂かれた意味を、ここで妖精たちは知ることになった。青年の身に起きた残虐な仕打ちに、妖精たちは涙を潤ませて羽根を震わせた。
カオス神殿から出ると、日は完全に暮れていた。青年がここに来たときはまだ西日が頬に当たっていたのに、今は中空に輝く月光が周辺を明るく照らしている。ガーランドに打たれた青年の頬は赤く腫れたままで、月明かりはその頬を包み込むように優しい光を浴びせてくれていた。
青年は神殿から少し離れた場所へと移動した。そこには大きな赤い竜が佇んでいる。
『喚びだしたのは汝か』
青年がまだ赤い髪をしていたころ、旅の途中に立ち寄ったオンラクの地で、称号について話をしたあの若い竜であった。今は竜王バハムートから別の称号を授かり、若い竜は立派な存在になっている。
『バハムート王の御名において、あなたに協力を求める』
『……なにが望みか』
『私をコーネリアまで送ってほしい』
『ウォーリア様⁉』
これに驚いたのは妖精たちだった。無理もなかった。青年の喚びだしたのは、かつてはともに語り合ったとはいえ、今は種族を束ねる長にまでなった竜だった。
その竜を乗り物扱い……。当の竜も黙って青年を見下ろしていた。要領を得なかったのかもしれない。
『……汝は今、なにを申した?』
『コーネリアまで私を乗せて飛んでほしい。そう、伝えたつもりだが?』
『……』
竜は沈黙し青年を見続けた。正確には青年の強い光を放つ深紅の虹彩と、青く輝くクリスタルを。
無言で見下ろしていた竜は、一度背の翼を大きく羽ばたかせると、ぐぐっと首を下げて頭を青年の近くまで寄せた。
『……良かろう。背に乗れ』
『すまない』
青年は頭を下げると、胸のあたりまで下ろしてくれた竜の首にしがみついた。よじ登るように、竜の背へと移動する。足首を庇っているので、青年の動きは遅い。青年のボロボロの姿と鉄靴から流れる血液を見て、竜もだいたいの把握はできていたのかもしれない。青年もわざわざ説明をしようとはしなかった。
『構わぬ。当時語り合った者の頼みとあらば、我とて断れぬ。ましてや、今となってはコスモスの遺志を継ぐ唯一の者……』
青年が背に乗ったことを確認すると、竜は大きく翼を数度動かした。青年を振り落とすことのないように、ゆっくりと飛翔する。妖精たちは青年の躰の至るところにくっついて、離れることのないようにしがみついていた。
『しかし、その身なりはなんだ?』
『これは……』
青年の躰について、竜も問いただすつもりはない。けれどボロボロの身なりは別となる。おおかたの予測はつくにしても、これでコーネリアに行けと言われても竜のほうとて困るものだった。飛翔した竜は、コーネリアの方角へ身を向けていたが、それをやめて両翼を何度も羽ばたかせた。
『よい。詮索はせぬ。しかし、このままではコーネリアへも行けまい。一度エルフの隠れ里へ立ち寄ってやろう』
『いや。そのような時間は……』
竜の提案に、青年は躊躇った。そのような時間を使ってしまえば、夜はすぐに明けてしまう。今の青年には、時間の経過が一番の敵だった。
『身なりを整えるだけなら、さして時間も使わぬ。王子に会うというなら、話は変わるが?』
『いや、王子に会うわけには……』
青年は口ごもる。王子に謁見している時間など、それこそとっている場合ではない。
青年の心の内が理解できたのか、竜はなにも言わずに上空を何度も旋回し、行先を隠れ里に向かわせた。青年もなにも言わなかった。竜の指摘は正しかったからだった。
素肌に鎧はともかく、腰布の状態が特にひどい。元々ボロボロだったものが、カオスに一部引き裂かれている。それに、真っ白なはずの腰布は自らの血液で滲んでいて、さらにひどいものとなっている。カオスに嬲られた箇所は出血のあとがおびただしく残っており、腰布があっても誤魔化すことができずに看破できてしまう。
今の青年は、どう見ても人前に出る姿ではない。コーネリアの町で町人に出会おうものなら、なにを言われ、どのように騎士団に報告がいくかわからない。青年にもそのあたりの判断はできた。
『では、隠れ里へ頼む……。アンダーと腰布を交換すればすぐにコーネリアへ』
『隠れ里ならば、見つかることもあるまい』
竜は翼を大きく広げ、エルフの隠れ里を目指して飛び立った。中空に浮かぶ大きな月に、竜と騎乗する者が映っている。それはとても幻想的で、まるで御伽噺の挿絵のようであった。だが、月に映る竜のその幻想的な姿を目撃したものは、残念ながら誰ひとりとしていなかった。
***
『──、──リア。聞いていますか?』
『……コスモス? どうした?』
どこか呆然とする子どもに、美しい女性は語りかける。子どもはなにもわからない表情で女性──コスモスを見上げていた。
『どうした? ではありません。もし、ガーランドがカオスに変化してしまったら……いいですか、これを使いなさい』
『これは?』
コスモスが子どもに見せてきたのは、一冊の重厚な書物だった。これは子どもも知っている。旅をするようになってから、コスモスが肌身離さず持っているものだった。
『あなたから取りだした光の書です。今のあなたには、この書の内容を理解することは難しいでしょう。ですが、大きく成長すれば、きっと……ごふっ』
『ひかりのしょ……?』
コスモスの言っていることは、子どもに理解できるものではなかった。それでも、子どもはそう呟いてから、蹲るコスモスから書を受け取った。表題から難しくて読めないその書を、子どもは眉を歪めながらペラペラと頁を捲っていく。
『コスモス。これは……?』
中を見ても、到底読めるものではない。このようなものを受け取ったところで、子どもには余してしまう。その意を込めてコスモスを見れば、口元を隠したままで苦しげながらも微笑んでいる。
『大きくなって、内容を理解できるようになれば……きっと、カオスを封じることができます』
あなたに押しつけてしまうことを許してください……。儚げに笑んでくるコスモスに、子どもはなにも言えなかった。こくりと黙って頷き、書をコスモスに返してその場を一度離れた。
吐血を繰り返すコスモスの喉を潤してあげようと、近くの湖まで行って水を得るために──。
■■■
『どうして、私はあの時に場を離れてしまったのだろうか』
そうすれば……。くっ、青年は口端を小さく噛んだ。悔しさに息を呑み、瞼を閉じる。
あの時に出逢ったあの大男──ガーランドが、すでにコスモスから書を託されていたのだと知っていれば……なにかは変わっただろうか。
子どもが場を離れたあの僅かな時間に、光の書は失くなっていた。コスモスが文字の読めない子どもだったころの青年にではなく、誰かに託したのだということを……青年は大きくなってから気づくことになる。それが、ガーランドだと。しかし、それでは遅い。
カオスを滅することのできる唯一の手段がなくなったこと、そして当時は泣くしかできなかったあのころを思いだし、青年は閉じていた瞼を開けた。虹彩の色は深紅からアイスブルーに変化している。
青年が当時を思いだしているあいだに、竜はバサバサと翼を動かして下降していた。しかし、竜が降り立ったのは、隠れ里ではなく、真っ暗な森のなかであった。
『到着だ……。我は此処に居る。支度が済めば戻ってくるがいい。コーネリアまで運んでやろう』
『すまない……』
『構わぬ。光の戦士よ……否、今は光の子か』
青年は竜の背から下りると、竜に何度も頭を下げた。コーネリアの内海を越えてのこの場所は、竜の飛翔ならそう時間もかからないが、船を使おうものなら結構な時間を要する。短時間で到着できたのは、青年にとっても有利となる。
青年は装備を整えるために、こうして森のなかに入っていった。妖精たちは黙って、脚を引きずるようにして歩く青年のうしろについていた。
『ウォーリア様、大丈夫ですか?』
『問題はない。脚さえ動けばどうにでもなる』
妖精に声をかけられ、青年は表情を強ばらせながらも答えていた。これ以上妖精たちを不安がらせないように、無理に笑みを作ろうとする。それは結局逆効果でしかないのだが、感情の機微に疎い青年は、それでも続けていた。
『もうすぐだ……』
青年が竜を喚びだしたのには理由があった。腱を切られた青年は、たとえ傷が癒えたとしても、すぐには歩くことができなかった。カオス神殿から比較的近距離であったコーネリアまでの道中すら、今の青年には厳しい。
脚として竜を使役することに抵抗はあったが、時間との勝負に出ている青年に選択の余地はないに等しい。青年を慕って協力してくれるのなら、可能な限り手伝ってもらうつもりでいた。
鬱蒼と茂る森のなかを、青年は樹々に手をついてどうにか歩く。竜はとても大きいので、降り立つ場所も限られる。あとは青年自身が徒歩で行くしかない。
歩いて行くうちに、灯りが見えてきた。隠れ里になんとか到着できたことに青年は安堵し、そのまま里へ入っていく。目指すは衣類を扱う店舗だった。
『まだ……、開いているだろうか?』
衣類店の扉を開け、控えめに問う。大きな声を出して事を広めたくはなかった。青年としては迅速に、物音を立てないように気をつけた。
「どうしました? ウォーリア様」
『すまない。店主……着替えと薬が欲しい』
恰幅の良い店主に話しかけられ、青年は口元に指を添えて返答をする。ここの店主は地声が大きいので、周囲に気づかれるおそれがあった。しかし、店主は青年をひと目見て、目を丸くした。
「ウォーリア様、そのお姿は……⁉」
『私の姿について、詮索は無用だ。替えのアンダーと腰布を大急ぎで頼む』
「はいっ。しかし、ウォーリア様……一度、身を清められたほうがよろしいのでは……」
店主も状況が呑み込めたのだろう。青年の姿を見て、顔色を赤と青に目まぐるしく染めている。〝誰かに凌辱された〟とひと目でわかる姿をした青年を、さすがに着替えさせるだけで外に出すわけにはいかない。
店主に先導され、青年は浴室へと向かうことになった。
「ウォーリア様、湯加減はどうでしょうか?」
『すまない。突然来た私にこのような……』
ちゃぽん。湯船に浸かり、青年は外にいる店主に謝罪していた。店主は外で薪を焚いて、風呂の水温を高めてくれている。店主含め家族はもう風呂に入ってしまったのだろう。このような時間帯に青年が訪ねてくるとは思わなかったであろうに、店主は嫌がる素振りを見せることなく薪を竈に投入しては青年に湯加減を聞いてくる。
青年にとって、この湯は優しく気持ちがいい。躰の疲れと相成り、このまま眠りに就いてしまいそうになる。しかし、いつまでも湯に浸かっているわけにはいかず、青年は早々に浴槽から出た。
「ウォーリア様……もっとゆっくり、浸かってらしてもよかったのですよ?」
ちゃぽんと水の弾ける音から、店主は青年が風呂から出ることを察したらしい。外から声をかけてくれる店主に、青年は申し訳なさそうに言葉を繋げた。
『そうは……いかない。私には、時間が限られている』
「そうですか……。では、脱衣場に替えの衣服を置いていますので」
『ありがとう』
青年が風呂から出て、脱衣場に移動すると、確かに黒の上下と腰布らしき白い布、あとは躰を拭く湯布と薬が置いてあった。青年は躰を拭いてから、内腿の奥と両の足首に薬を塗布した。それからアンダーを手に取り、さっと身なりを整える。着心地のよいアンダーの、ほのかに香る柔軟剤の柔らかい匂いを鼻に入れた。
ガーランドともう一度戦うことになれば、今度は柔軟剤の匂いではなく鉄の……血液の匂いに変わってしまう。今だけでも……と、青年は何度も柔軟剤の香りを取り込んだ。
脱衣場を出ると、店主は戻ってきていた。青年は店主に顔を向け、使った湯布を返した。
『ありがとう。店主……』
「くれぐれもお気をつけて。ウォーリア様……」
店主と短く言葉を交わし合う。青年は感謝でいっぱいだった。詮索することもなく風呂を貸してくれ、替えの衣類まで……。これ以上の言葉を交わすことなく、青年は鎧を身につけていく。そうして、青年は装備を整えると、もう一度店主に挨拶をして衣類店を出た。鎧は青年がアンダーを着ているあいだに、店主が磨いてくれたのだろう。艶よく輝いている。
先とは違い、全身も少しは回復していた。それでも、切られた腱は治るわけではない。青年は脚を庇うようによたよたと早歩きで進み、竜のもとへと急いだ。
『すまない。急ごう』
『……』
待っていた竜はじっと青年を見下ろした。青年の容姿は、下ろしたときとは全く異なっている。光り輝く青の重鎧の下は、闇を映しだすような漆黒のアンダーとレギンス、真っ白に輝く腰布を着用していた。
以前──まだ青年が赤い髪をしていたころに出会ったときとは全く異なる姿に、竜はふんと鼻を鳴らす。気丈に振る舞う青の鎧の青年は、まだ脚を引きずっている。
『体調は……良いのか?』
『……そうも言っていられる余裕は、今の私に残されていない。早く、少しでも早く……ガーランドを止めないと』
今ひとたび闇に堕ちれば……。もう、私の手には負えなくなる。悲痛な表情を浮かべる青年を見下ろし、竜は身を屈めた。脚を怪我していることを隠そうとする青年に、少しでも配慮をしたつもりであった。
『ありがとう』
竜の思いに気づき、青年は僅かながらの硬質な笑みを浮かべた。脚が痛むのか、表情に強ばりが見られる。
はぁ、青年にわからないよう、竜は溜息をつく。この青年の頑固さは、界隈では有名だった。一途で……それでいて頑固でまっすぐで、一度決めてしまえば覆すことはない。どこまでもひたむきに前を見つめる青年に、いつしか周囲のものは惹かれていった。妖精族もこのエルフの隠れ里の者たちも、もちろん竜族とて例外ではない。
心配はするが、青年の気持ちも痛いほどわかる。カオスを野放しにしてしまえば、この世界は滅亡へと向かうことになる。そうなれば、竜族も……。
『構わぬ』
竜は青年を背に乗せると、ひと言だけを告げた。これからカオスと対峙しなければならない青年の数奇な運命を、祈るような気持ちでいる。
『我は汝が心配ではあるがな。……光の子よ』
そう言いながらも、青年が背に乗ると、竜はゆっくりと大きな翼を広げ、飛び立った。
あまり揺れが生じないことに、青年も安堵する。黙ってはいるが、脚だけでなく、内腿の奥もまだ痛みは残っている。光の属性であるとはいえ、闇の眷属でもある今の自身の唾液と食料代わりの血液では、やはり傷も体力も回復しきれてはいない。
ガーランドの血液をもう少し得ていれば……。もしくは、適合する別の誰かを見つけることができ、身を繋ぐことができていれば。青年の中で、なにかが変わっていたかもしれない。〝別の誰か〟が存在しないことはわかっていても、青年の心に後悔ばかりが溢れてくる。
竜の大きな姿を地上に映し、青年は移り変わる景色に見入っていた。緑の豊かな大地は、このままだとカオスの分身でもある四体の魔物に支配される。せっかくの美しい大地を、四体の魔物に支配されたくはなかった。
竜は翼を優雅に動かし、コーネリアの方角に進んでいく。コーネリアの古城がウォーリアの視界に入ってくる。いよいよ……と思うと、ウォーリアの胸は緊張で高鳴っていた。破裂しそうなほど拍動を続ける心の臓を鎧の上から手のひらで押さえ、緊張を落ち着かせる。
『書が……残されているか、だな』
青年はガーランドの前で書に記されていた言葉を詠唱しようとした。ガーランドなら、それがなにか……わかるはずだった。もしかしたら、すでに書はガーランドによって持ち去られている可能性だってある。処分──ほのおの魔法で燃やされたかもしれない。青年は書の安否が気になった。
『すまない。町外れで下ろしてくれないか』
竜はコーネリアの王城の横をすり抜けるように通過した。城下町を警らする騎士や王城の守りに就く者には、おそらく竜の飛翔にしか感じられないだろう。背に乗る青年はこれからのことを案じ、祈るような思いでいた。
『ここでいい。少し待っていてほしい』
町外れの比較的広い広場に竜は降り立ち、同時に青年も背から滑るように石畳の上に着地した。深夜であることが幸いし、町の者は誰もいない。しかし、安心は禁物だった。王城の騎士団の者が交替で町を見まわっている。竜が見つかるといろいろと厄介になるため、極力迅速に行動する必要があった。青年は竜に隠れておくように伝え、脚を引きずらせながらも急いでガーランドの家に向かった。
『……着いた』
ガーランドの住まいに到着すると、青年は躊躇うことなく家の中へ入っていった。室内は青年が出ていったそのままの状態で残されている。ガーランドが戻ってきた形跡はなく、青年はまず置いたままにしておいた書を手にした。ガーランドに持っていかれている可能性も考えていたが、それは完全に杞憂だった。そのことに、青年は安堵する。
『ガーランドが帰ってきた様子はないな。騎士団にいるのか、それとも……』
青年は瞼を閉じ、周辺の気配を探るように意識を集中させていた。ガーランドがコーネリアに戻っていることは、先に妖精たちから聞いている。普段どおりに過ごすのなら、ここに戻るか、騎士団で一夜を過ごすのか。そのくらいしか青年は思いつかない。いつ鉢合わせしても対処できるように、青年は気を引きしめる。
『ウォーリア様、ガーランドはカオス神殿に向かったようです』
『?』
青年の周囲に柔らかな風が舞う。ふわっと兜からはみ出ている青年の髪がなびくと、涼やかな声が宙から聞こえてきた。コーネリアに着いた時点で、妖精たちは青年から離れていた。どうやら情報収集してくれていたようで、青年は声に耳を傾けた。
『〝白の魔物〟がカオス神殿に現れたから……と。町では朝から噂になっていたみたいです』
妖精の一体が仕入れてきた情報に、青年は言葉を失った。それでガーランドはカオス神殿に行っていたのか。青年が無意識のうちに向かってしまった先もカオス神殿だった。
どうやら、あの神殿はふたりにとって切り離せられないものらしい。くっ、青年は小さく声に出して苦笑する。はじまりも、終わりも……今回もまたカオス神殿で決着がつけられることになりそうで、青年は過去の自身を思い起こした。
『竜のもとに戻ろう』
中空にあった月は少し西に傾いている。青年がカオス神殿に向かったときは日暮れの太陽であったが、今回は月となる。太陽と月が対を成すようで、青年は柳眉を歪めて苦笑した。まるで、過去の自身──赤い髪のころと、そして、今の自身を映しているようで。
氷雪色の髪にアイスブルーという色彩の抜けてしまったような色合いの自身の姿に慣れるのに、青年は子どもに戻っていたためにさほど苦労はしなかった。ただ、それは青年が子どもだったからで、周囲のものは別だった。
赤い髪の青年を知る者は、豹変したかのような子どもの姿の青年に驚愕したものだし、また理由を問い詰めようとした。竜も妖精たちもそうだった。コスモスが行使したものと理解するまでは、赤い髪の青年の変化をとにかく訝しんだ。
しかし、赤い髪の青年の持つ力強い深紅の瞳は、子どものアイスブルーの瞳の中に宿している。それが時おり現れることで、赤い髪の青年とアイスブルーの瞳の子どもが同一の存在であると、理解することが可能となった。
こうして、子どもは周囲からも認知されていく。コスモスが連れていたことも理由になるのだが、このあたりの事情については、当事者である青年は最近になって知ることになった。記憶を忘却させられたうえに、青年自身が身なりについて無頓着であるのが原因だったために──。
月を見ながら物思いに耽ってしまったが、青年はしっかりと痛む脚を動かしていた。竜は青年を降ろしてくれた場所で待機してくれている。青年は竜に駆け寄ると、妖精たちの集めてくれた情報を簡潔に説明した。
『──頼む。カオス神殿に』
『早く乗れ』
竜の背中によじ登り、飛び立つ瞬間を視界に入れる。地が遠くなり、コーネリアの町並みも少しずつ離れていく。
青年はガーランドの家を、記憶の中に焼きつけるように見つめていた。もう、戻ることのないであろう家は、取り残されたかのようにそこにある。
竜がコーネリアの上空を旋回してからカオス神殿に向かうまで、飛行は安定せずに多少は揺れたが、それからは落ち着いたものとなった。
青年は竜の背に身を預けていた。竜にすれば僅かながらの飛行だが、青年は躰を休める最後の時間となる。この短い時間を、青年は大切に使いたかった。
手に持っていた書をペラリと捲り、青年はブツブツと独り言のように口ずさんでいる。紡ぐ言葉は、この世界には存在しない言葉──。
竜はコーネリアのもう少し北にある、朽ちた神殿の手前の森の入口で降り立った。ここから先は強力な結界が張られており、竜の力でも通過することが能わない。
『先はこのようなもの、なかったはずなのに』
……あの神殿のどこかで、魔法がかけられている?
鬱蒼とした森は、それだけで外部のものを拒絶しているようだった。感じたことのないなにかを感じ、青年は周辺を見渡した。ピリピリと肌に突き刺すような強い気配に、ぶるりと身震いする。
『ありがとう。ここでもう、十分だ。妖精たちも』
『ウォーリア様、お気をつけて……』
『気をつけるのだぞ。……光の子よ』
それでも、ここで怯むわけにはいかない。青年はまた涙を流す妖精たちと竜に別れを告げてから、真っ暗な森のなかに脚を踏み入れた。
森のなかで魔物に出会うのではないかと考え、青年は剣を構えて歩いていた。が、強力な結界のせいか、魔物とは一度も遭遇せずに神殿前までたどり着いた。
『……』
胸騒ぎがする。青年は剣をその場に突き刺すと、胸に手をあてた。ひんやりとする鎧の冷たさは、青年の火照った心を落ち着かせてくれる。青年はふぅと大きく呼吸をすると、剣を持って神殿のなかに入っていった。