Ephemeral Waltz(FF1) - 1/5

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 第一夜 出逢い

 コーネリアの王城から北西に存在する神殿は、長く捨て置かれていた。ところどころ朽ち果て、石壁には亀裂が生じている。崩落した天井からは陽光が射し込み、この神殿の内部まで明るく照らしていた。石畳には草が生え、外壁は蔦で覆われている。
 おそらくなにかを祀っていたのであろうその神殿は、外見もだが、周辺の森も荒れ果てていた。突如現れ出た魔物は好きに闊歩し、先住していた動物たちを貪っていった。そのために神殿の周囲の森の食物連鎖は崩壊し、魔物しか住まない森へと変貌していった。
 そんな荒れた森と神殿は、いつしかコーネリアの住民たちにも怖れを抱くようになっていった。というのも、その森に巣食う魔物たちは、コーネリアの周囲の森にまで勢力を及ぼしていた。
『神殿に魔物を先導するものがいるのではないか』
 コーネリアに住まう人々は口々に噂した。そうでなければ、神殿の周囲までを拠点としていた魔物たちが、王城近くまで及ぶはずがない。
 目に見えない先導者を、コーネリアの者たちは口々に噂した。そうして、いつしか神殿は〝カオス神殿〟と、周囲の森は〝混沌の森〟と呼ばれるようになった。

 ***

〝夢の都〟──その名に相応しい国として、コーネリア王国はこの世界の中心に成り立っていた。その国には、国内のすべての騎士を統べる騎士団長として、ガーランドと呼ばれるまだ若いひとりの男が存在している。
 まだ年端のいかない若い青年を騎士団長に指名することに、騎士団ではおおいに揉めたと聞く。それでも、ガーランドを騎士団長とすることに反対した者は、その実力を見ただけで腰を抜かしていた。
 というのも、ガーランドはその恵まれた体躯以上に、魔法にまで精通していた。特に地水風火に関しては、精霊を使役し意のままに操ることができる。
 これには国王を含め、家臣の皆が驚いた。どれかひとつ……それなら、宮廷の魔道士でもできる者はいる。しかし、それが四つとなり、しかも、ガーランドはその四つを同時に使役していた。
 このような男を、コーネリアとしては見逃せなかった。反対する者は国王の命令により、厳しく罰せられた。そうしてガーランドは、異例の若さで騎士団長に抜擢されることになる。
 ガーランドが騎士団長に任命されると、すぐさま神殿と周囲の森の魔物の討伐隊が結成された。隊を引き連れ、ガーランドは王城をあとにした。
 しかし、ガーランドは隊ともども戻ってくることはなかった──。

 不思議なことに、隊が消えたと同時に、魔物の出没もなくなった。コーネリアの住人たちは胸を撫で下ろした。消えたガーランドや隊には悪いが、これでもう安全だろう。誰しもが、そう思った。
 だが、魔物はまたしても猛攻してきた。今度は明らかに、誰かが指揮をとっている。統制された魔物の動きに、遺されたコーネリアの騎士団も、なすすべもなく壊滅させられた。このままでは……、誰もが思ったときだった。
『ガーランド様!』
『騎士団長様!』
 満身創痍のガーランドひとりだけがコーネリアへ帰還した。全身に傷を負い、ガーランドは歩くのもやっとな体であった。
 それでも、魔物を見るやいなや、ガーランドは巨剣をひと振りした。それだけで魔物は薙ぎ払われる。ガーランドが魔法を詠唱すれば、たちまちのうちに魔物の群れは消滅した。
『さすが、騎士団長様だ……‼️』
 そのさまを見ていたコーネリアの住民たちは、ガーランドを口々に称えた。これにより、ガーランドが若いからと、騎士団長に反対していた者も、なにも言えなくなった。これだけの力を示されて、反対できようはずもなかった。
 満身創痍であったとはいえ、ガーランドの元々の体力により、傷の治りは早かった。すぐに傷を癒やしたガーランドは、その足で再び隊を編成し、混沌の森の奥にあるカオス神殿へと向かった。
 しかし、結果は同じだった。隊は消え、しばらくしてから、満身創痍のガーランドだけが戻ってくる。
 ガーランドに神殿の魔物について聞いたところで、本人には記憶がなかった。なかった……というより、その部分だけが欠如している。隊を引き連れ、神殿へ突入してからの記憶が、ガーランドには一切残されていない。
 これには、コーネリア王城および城下町の住民たちがまた噂した。
『もしかしたら、ガーランドは記憶操作をされているのかもしれない』──と。
 根拠は全くないのに、出処はわからないまま噂は瞬く間に広がり、なぜか尾ひれまでつくようになった。いつしか、ガーランドが魔物を率いているのではないか。とまで、囁かれるようになっていた。
 根拠のない噂を鵜呑みにはできない。だが、二度に渡る失敗は、コーネリアとしても黙認できなかった。討伐失敗は近隣諸国にまで伝わり、ガーランドの騎士団長としての名は地に失墜しかけた。そのときだった。
『魔物だァ!』
 コーネリアに、神殿や森の魔物たちが襲撃してきた。町は一気に大混乱へと見舞われることになる。
 だが、ガーランド率いる騎士団が、襲撃をすべて未然に防いだ。なんとか町の手前で食い止め、魔物たちを殲滅することができた。
 人々というものは案外適当なもので、目の前で活躍したガーランドを、またしても称えるようになっていた。しかも、ガーランドは地水風火以外にも、光の力を今回は使役した。これには国王も驚愕した。
『もしかして、ガーランドが伝説の光の戦士かもしれない』
 そのような噂までもが、コーネリアでは囁かれるようになっていった。

 そして、もうひとつわかったことがあった。神殿や森の魔物たちを統制する魔物は、やはり存在していた。これは光の力を使役したときに、ガーランドが思いだしたものだった。
『はっきりと姿を見たわけではないが、確かに統率者は存在する──』
 ガーランドは言い切り、それを国王は認めた。これまでの度重なる魔物の襲撃から、このコーネリアを護ってきたガーランドの言葉に、国王は大きく頷いた。
『討伐隊を組んだところで壊滅させられる。それなら、付かず離れずで魔物を牽制しているほうがいい』
 ガーランドの助言を国王は聞き入れ、コーネリアの国境の警備を固めるようになった。ガーランドの見たという統率力のある魔物を〝カオス〟と、いつしか呼ぶようになっていった。これはもちろん、神殿や周囲の森から付けられたものであった。
 こうして、コーネリアや近隣の諸国では、恐怖に怯えながらも神殿の魔物とも折り合いをつけ、年数を経過させていった──。

 ***

 とある日のことだった。ガーランドは隊を率い、コーネリアを出た。『混沌の森の魔物たちが、国境警備の砦近くまで出没した』との情報が、寄せられたからだった。
 国境警備隊とも落ち合い、引き連れた騎士団とともに砦の近くで陣を張る。しかし、ガーランドはなにかに呼ばれるかのような声を聞きとり、この場を一度離れていった。

 しばらくして近くに魔物が現れたとの報告が入り、ガーランドはすぐに戻ることとなる。場を離れたときには持っていなかった、一冊の書をガーランドは持ち帰ってきた。それがなにかを理解できる者はいない。
 しかし、ガーランドが不在のこの僅かなあいだに、魔物は攻め入ってきた。疑ってはいけないことではある。それでも、ガーランドに疑心を抱く者は、また噂を広げていった。
『ガーランドが魔物を引き連れてきたのでは?』
 だが、場を離れて戻ってきたガーランドは状況を部下の騎士に聞くと、一瞬にして魔物を殲滅させてしまった。ガーランドの動きは、どう見ても自作自演とは思えなかった。これにより、疑心を抱く者は誰ひとりとしてこの場にいなくなった。
「日が暮れる前にテントを張ろう」
 日が落ち、闇が支配するようになれば、獰猛な魔物や肉食動物が徘徊するようになる。その前に、テントを設営し、牽制のための火をおこしたかった。
 今宵はこの地で休むつもりで、ガーランドはテント設営の指示を出していた。
 ガサリ……
 近くの薮から物音が聞こえた。魔物の類か? 騎士団および国境警備隊の全員に緊張が走った。
「……もう一度、私が周辺を見てこよう。お前たちは設営を早めておくように」
 それだけの指示を出し、ガーランドはひとりで薮のなかへと突き進んだ。危険な行為ではあると、ガーランドも承知している。だが、薮のなかへ大人数が入っても、正直な話、ガーランドにとって邪魔にしかならない。
 巨剣を振るうにしろ、魔法を詠唱するにしろ、誰もいないほうがガーランドには都合がよい。部下に万が一被弾でもすれば、それこそ目も当てられない。
 ガーランドの攻撃手段は、単体にも複数体にも向けることが可能になる。それゆえに、慎重にならざるを得なかった。ガーランドは極力物音を立てないように、そろりと薮をかき分けた。
「っ、」
……これは、童子……か?
どうしてこのようなところに? ガーランドはまず、それを考えた。小さな子どもがガーランドに背を向けるように蹲っていた。子どもの肩はふるふると震えている。この子どもが涙を流していることは、ガーランドから見ても明らかだった。
 周囲にはこの子ども以外に誰もいない。このことに、ガーランドはまず疑問を抱いた。
 ガーランドは子どもに声をかけるか躊躇した。だが、このような場所に子どもを残しておくわけにもいかず、ガーランドはそっと近寄った。
 子どもを怖がらせることのないようにと、ガーランドはまず兜を外した。厳つい兜は、ガーランドだと知る者からは人気だが、知らない者からすれば怖がらせてしまう。ましてや、相手は子どもときた。後者の可能性を考えるのが妥当ともいえる。
 ガーランドは背を向けて蹲る子どもの肩に、優しく手をおいた。
「このようなところで、なにをしておる……」
『かあさまが……』
「……そうか」
 可哀想ではある。これについてはガーランドも同情してしまう。この時世、なにが起こり得るかわからない。
 子どもの前には盛り上がった土が存在していた。おそらく……生命を失った母親をこの場で弔ったのだろう。子どもの両手は、土にまみれていた。
『わたしに……ひかりのちからがたりなかったから、かあさまは……』
「光の力?」
 子どもの慟哭に、ガーランドはぴくりと反応した。では、この子どもと母親は、この周辺の魔物にではなく……?
『……おまえのひかりのちからがほしい』
「なに?」
 ガーランドは目を見張っていた。振り返った子どもの眼は、鳩の血のように闇色に輝く深紅──。
「……っ、」
……なんて色だ。
 ぞくり、ガーランドは戦慄した。ガーランドも初めて見る。真っ朱な血液のような紅の虹彩だった。アルビノの子どもか? ガーランドは考えた。というのも、この子どもの髪色は、気高い白色だった。まるで、光り輝く氷雪のような眩さを持ち得ている。
『わたしにかあさまをまもるだけの、ひかりのちからがたりなかった。わたしにはえることができない。だから──』
「……っ⁉」
 ガーランドは何度も瞬きを繰り返した。涙を流す子どもの瞳は、氷のような薄い蒼氷色に変わっている。
「……」
……気のせいだったのか?
 ガーランドは呆然と子どもを眺めていた。しかし、すぐに我に返った。母親を弔ったばかりの子どもには酷かもしれない。だが、このまま子どもをこの地に残しておくわけにもいかない。
 子どもはみすぼらしい姿をしていた。魔物に襲われたのだろう。衣類はボロボロに裂けている。子どもの性別は身なりからは不明だが、この世には好事家はいる。闇のオークションも存在する。魔物以外にも危険は多く存在する以上、ガーランドは設営したテントに連れていこうと考えた。
 この子どものことは、帰還してからコーネリアの養護院にでも預ければいい。ガーランドは考え、自身の身につけていた白銀の外套を外し、子どもにかけてやった。ボロボロの身なりで、この子どもがもし女児ならば……それこそ好事家や人攫いの餌食になりかねない。
「その外套はお前にやろう」
『いいのか? このような……』
「構わぬ。それより、私と来い。このままで、は……っ⁉」
 ガーランドは目を見開いた。周辺をきょろきょろと見まわす。子どもはガーランドの前から忽然と消えていた。確かに此処にいて、母を喪ったと……大粒の涙を流していたのに。

──ありがとう。いつか、かえしにこよう。そのときは、おまえを……。

 風を伝い、詠うように流れてきた。あの子どもの声だった。子どもの声なのに凛とした清涼な声色は、聞いていて気持ちのいいものだった。また聴かせてもらいたい。そう、ガーランドが思うほどには。
 ガーランドはしばらくこの地に佇んでいた。呆然としており、動けなかった……のほうが、表現としては正しいかもしれない。
 ガーランドの目の前には、こんもりと盛られた土が遺されていた。子どもの母親が眠るその場に、ガーランドは膝をついた。
──いつか逢えることがあれば、あの子をもらい受けるかもしれない。
 なぜ、そのように考えてしまったのか。ガーランドもわからなかった。とにかく、母親である女性の了承を得ておきたかった。もう逢えるかもわからない子どものことなのに……。
 ただの自己満足にすぎない。それでも……。ガーランドは立ち上がった。その表情は晴々としている。
 日々魔物と戦い、焦燥を浮かばせていたガーランドからは、信じられないような生き生きとしたものだった。兜で隠れてしまうので、残念ながら見る者はいなかったが──。

 ***

 混沌の森に〝カオス〟が現れるようになり、かれこれ十五年が経過した。このあいだに、騎士団はなにもしてこなかったわけではない。国境警備に力を入れ、近隣諸国とも協力して討伐隊を向かわせた。……結果は、散々たるものではあったが。
 誰も見たことのない〝カオス〟の存在を唯一知るガーランドだけが、討伐隊の頼みの綱となっていた。騎士団長としていつも先導する傍らで、ガーランドは常に一冊の魔道書を持ち歩いていた。
 混沌の森周辺の魔物、および〝カオス〟は、光に弱い傾向にある──。
 これは実際にガーランドが戦い、見てきたものだから実証性はあった。だが、ガーランドは四大元素の精霊とは性質の違う、光の精霊を使役できなかった。力を借りて、なんとか光の魔法を駆使するにすぎない。それでも魔物には効果あったのだから、ガーランドは魔道書を頼りに魔物を討伐してきた。

 人々はそんなガーランドをずっと見てきた。古い者になると、歳若かったガーランドが騎士団長に任命されるその前から知っている。まだ青年だったガーランドも、そろそろ髪に白いものが混じる年齢に差しかかっていた。
『ガーランド様は、どなたか娶らないのですか?』
 街の権力者は、こぞって娘や身内をガーランドに紹介しようとした。それだけではない。国王からも近隣国の王女や、身内にあたる高貴な女性を紹介された。しかし、ガーランドはすべて断ってきた。
『まだ魔物がはびこる危険な状態で、どうして世帯など持つことができようか』
 真面目すぎるガーランドの返答に、誰も声を発せなくなった。高潔な騎士団長として孤高を貫くガーランドを、人々は崇めはじめた。
 だが、ガーランドはそれを不服とし、国王にまず進言をした。
『自身は崇められるほどの器など、持ち得てはおらぬ』
 どこまでも真面目で一本気なガーランドに、国王も町の権力者もおおいに感嘆した。いつ、誰が言いだしたかわからない。いつの間にか、ガーランドには『孤高の騎士様』と勝手なふたつ名がつけられ、周囲に広まっていくことになる。そうして、ガーランドの意図せぬところで、人気はますます上昇していった。
 しかし、ガーランドが縁談を断るのに、実は理由があった。今の危険な状態で、世帯を持つことには確かに躊躇する。しかし、ガーランドの力をもってすれば、できないわけではない。だが、それ以上に、ガーランドには世帯を持たない大きな事情があった。

『──ありがとう。いつか、かえしにこよう。そのときは、おまえを……』

 詠うように紡がれたあの声を、ガーランドは忘れることができなかった。この十五年、片時も……だった。あのときの童子は、どのように大きくなっただろうか。外套を本当に返しに現れるのか。ガーランドは考えるようになっていた。これが、ガーランドの世帯を持たない本当の理由であり、事情であった。
 子どもの身元も、それに性別すらわからない……ほんの少しだけ話をした子どもを忘れられない。など、打ち明けられるはずもなかった。ガーランドは常に、心のなかで焦がれていた。

 いつのころからか、コーネリアの町では『混沌の森に白い魔物が現れる』と噂されるようになっていた。姿は誰も見たことがない。ただの憶測にすぎない。それなのに、白は断定されていた。というのも……。
「またか……」
「ガーランド様、どうされましょう?」
 どうやらこの地を目指し、行商に訪れた者たちが被害に遭ったようだった。テントを設営し、夜を過ごしていたところを襲われたらしい。
 ガーランドは騎士団を率いて、その場に来ていた。そして凄惨な場を目の当たりにした。騎士団員の若い数人は、あまりの現状になにも言えずに固まっていた。
「どうもせぬ。早く捕えぬと」
「はっ」
 ガーランドの指示のもと、駆けつけた騎士団は生き残りの者たちを次々に保護していった。その者たちから口々に訴えられた。
『白い魔物が──』
 このようなあやふやな情報を、騎士団としては鵜呑みにはできなかった。しかし、保護した者のすべてが口を閉ざし、これ以上なにも言おうとしない。白の魔物という断片的な単語を頼りに、騎士団は周辺を捜索していった。だが、該当するような魔物は見つからなかった。

 そんなある日のことだった。
 この日は特別月明かりが綺麗な夜だった。しかし、今はまだ月は厚い雲に覆われている。月光がない状態の暗い夜道をガーランドは歩んでいた。
「かなり遅くなった……」
 ガーランドは日付が変わるほど夜遅くに、帰路に着くべく急いでいた。早く戻り、新たに手に入れた魔道書を読みたい。逸る思いを胸に抱き、で脚を動かしていた。しかし……。
「む?」
……誰か居る?
 街の外れに佇む者がいる。このような遅い時間帯に、宿もとることもしない。旅の者だろうか? ガーランドは考えた。しかし、目撃してしまった以上、さすがにこのまま通りすぎるわけにもいかない。ガーランドは声をかけた。
「旅の者か? 宿ならこの向こうの路地を曲がれば〝INN〟と書かれた看板があるはずだ」
 ただの親切心で声をかけたつもりだった。しかし、旅の者らしき人物は、ちらりとガーランドを見つめて小さく微笑んだ。
『見つけた……』
 確かに、この者はそう言った。というのも、か細く、囁かれるように紡がれたため、ガーランドにはギリギリで耳に入ってきた。鈴の鳴るような冷涼な声色に、ガーランドは不覚にも聴き惚れてしまった。
 その者は男性だった。少なくとも女性ではない。声も女性のような高い澄んだ声では決してなかった。それなのに、韻を踏むような心地好い声を耳に響かせ、優艶に微笑んでくる。ガーランドの心はどくりと高鳴った。
「……む、」
……この者は男ではないか。儂はなにを血迷っておるか。
 ガーランドは目の前の旅の者から目が離せなかった。様相はとてもみすぼらしい姿をしている。だが、埃と泥にまみれた鎧の色は美しい青をしていた。
 しかし、身につけているものは汚れているだけで、その身を綺麗にしてやれば相当のものであると容易にわかる。この青年には町の住人とは違うなにかを、ガーランドはひしひしと感じていた。
「訊くが。なにを見て『見つけた』などと申した?」
 ガーランドは気になっていた。この青年がガーランドを見て、一番はじめに答えたこの言葉に。いったい、ガーランドのなにを見て『見つけた』なのか。ガーランドは青年に詰め寄った。
『おまえは、私の光……』
「なに?」
 ガーランドは聞き違えたかと考えた。四大元素の魔法なら扱える。これを指して言われたのなら理解もできる。しかし、青年はガーランドの使えない〝光〟を指してきた。ガーランドは訝しんだ。自身をじっと見つめてくる青年を黙視する。
 青年はとても美しい外見をしていた。鎧を身にまとっていなければ、女性としても通じるくらいのものだった。躰の線はどこか細い。痩躯……まではいかないが、もう少し肉をつけてもよいかもしれない。
『……』
 なにも言わずに、青年は微量な笑みだけを浮かべている。どこか神秘的で幻想的にも映るこの青年に、ガーランドは訝しみつつも魅入ってしまっていた。

 サアァ……
 風が薙ぎ、厚い雲で翳っていた月が顔を出した。今宵は見事なまでの満月の夜だった。淡い月の光は、街灯すらない街道を明るく照らしている。
 まるで月に監視でもされているかのような月明かりの下で、ガーランドは青年を刮目し続けていた。訝しんでいたはずが驚愕に変わり、声は言葉として出せないでいる。
「……」
……これほどまでとは。
 なにもない真の闇のなかでは、ガーランドの夜目をもってしても、青年の薄汚れた青の鎧の色しか映さなかった。それがどうだろうか。月明かりに照らされた青年は、幻想的な白の髪を持っていた。否、ただの白ではない。あのときに見た、子どもと同じ髪色だった。
 二本の長い角が天を衝くような特徴的な兜を被っているのに、青年の髪の白は目を見張るものがあった。
 それに、ガーランドが着目したのは、青年の紅く光る瞳だった。しかし、それも一瞬で、すぐに氷を模したような薄い青へと変化した。
「……」
……月の光の加減のせいか?
 髪の色以上に、青年の虹彩の色が気になった。ガーランドはつい、まじまじと青年のアイスブルーの瞳を覗き込んでしまっていた。
 驚くことに青年もガーランドをじっと見上げて、見つめていた。嬉しそうに少しばかり表情を緩めている。不器用に笑むその表情に、ガーランドは虹彩以上に心を奪われていた。
『おまえといると……落ち着くな』
 ぽつり、青年は洩らした。くすりと小さく笑んだ青年に、ガーランドの心はどくりと高鳴っていた。
「お前の瞳の色が変わったように見受けられたが?」
 ガーランドは問いていた。どうあっても気のせいではない。確かにガーランドは青年の瞳の色の変化を確認した。このようなこと、人間にできるはずもない。ということは、この青年は──。ごくり、ガーランドは生唾を飲み飲んだ。緊張が走る。背筋に妙な汗が流れるのを感じた。
『……』
 青年は口元に手をあて、少し思案していた。教えていいものだろうか。答えていいものだろうか。それにより、この男のこれからを狂わせてしまうのではないだろうか。ぐるぐると同じようなことで頭をいっぱいにするほど、青年はたっぷり数十秒は考えていた。
「答えてはもらえないのだろうか?」
 ガーランドはなかば諦めていた。青年はじっとガーランドを見てくるだけで、先から無言を貫いている。このままでは時間だけが無駄に経過してしまう。ガーランドは判断した。

 サアアァ……
 風がゆるりと薙ぎ、月は翳る。まるで青年の様相を明確にガーランドへ教えるためだけに、その明るく淡い光を照らしたかのようだった。ガーランドは嘆息した。これ以上の問答は時間を割いてまで行なうものでもない。
「宿は先に言ったとおり、この」
『……私は吸血鬼と呼ばれている』
「……⁉」
 ガーランドは瞠目していた。声がうまく出ない。唇だけがカタカタと震えていた。振動は鎧に伝達し、鎧からと音が鳴り響いた。静かだったこの場は、妙な金属音の奏でる場と化している。
「そう、か……」
……では、この者は魔物の類なのか。
 それならば討伐せねばならない。ガーランドは巨剣を構えた。青年が動きだせば、ガーランドはすぐに討てるほどの間合いを保つ。
 青年はガーランドをじっと見上げていたが、ふいと顔を逸らした。小さな吐息を洩らし、か細く囁くように紡いでいった。
『おまえに聞かれたから、正直に答えたのに……。おまえは人間以外の種族は見ようともしないのだな』
「なに……?」
『私が昼夜で性別の入れ替わる種族なら、おまえは満足したのか? 人間はどうして自分たち以外の種族を見ようとしない? 我々だって、懸命に生きている。それに、おまえだって……ぅっ』
「どうした?」
 青年は主張を途中で止め、その場に蹲った。肩で大きく呼吸を繰り返す青年に、どこか不安なものをガーランドは感じていた。
 ガーランドは青年の隣に膝をつき、金糸雀色のマントの上から背をさすった。鎧があるので意味はないに等しい。それでも、ガーランドは青年の背をさすり続けた。
 やがて落ち着いたのか、青年は顔を上げた。美しい形の眉を少し寄せ、青年は言いにくそうに口ごもっていた。
『腹が減った……』
「は?」
 ようやく口を開いた青年から予想外の言葉を聞き、ガーランドの目は点になった。思わず間抜けな声を出してしまうほどには驚いた。
『おまえの血が欲しい……』
「馬鹿な──」
ことを。そこまで言いかけ、ガーランドは口を噤んだ。この青年が吸血鬼であると先に告白してきているのだから、当然といえば当然のことだった。
 この世界には、吸血鬼族と呼ばれる種族は確かに存在している。ただし、このコーネリアからは少し離れた地域に生息しているはずだった。ガーランドも噂でしか聞いたことがなかった。
 吸血鬼族のことは、以前になにかの拍子で調べたことがあった。そのために、生態についての知識は多少持っているつもりだった。
「……」
……確か、吸血鬼族というのは……黒ではなかったか?
 ガーランドの記憶している限り、そこの地域の吸血鬼族の容姿とこの青年の容姿は全く異なる。また違う種族なのだろうか。ガーランドは逃避していた。
 この世界に生きるものは、なにかを体内に摂取しないと餓死してしまう。人間に限らず、吸血鬼族も同様だった。これに差分はない。肉体の大小、寿命の長短に関係なく、すべてが必要量に応じて等しく摂らなければならない。しかし、まさか自身が食料対象にされているとは……。その考えは、ガーランドから完全に抜け落ちていた。
『無償でもらおうとは思わない。代わりに私の精をやろう。……おまえがそれを望むなら、だが』
「……」
 言葉が出ないとは、このことを言うのだろう。ガーランドの逃避もいよいよ本格的なものとなっていた。青年の言葉の意味がわからないほど、ガーランドは初心でもない。遠まわしに身を捧げると告げられ、返答に詰まっていた。
『……対価は支払う。望まなければそれでもいい。おまえが拒むなら……、私は別の者に頼むだけだ』
逢えて嬉しかった。青年はガーランドがこの対価交換に応じるとは思ってもいなかった。血液をほんのひと舐めでもできればそれでよかった。だが、さすがにガーランドが相手では、それも無理な話のようだった。
 くすりと含んだ笑みを浮かべ、青年は立ち上がった。そのまま、ガーランドの横をすり抜けるようにして歩きだす。
 これにはガーランドのほうが驚いた。先までは苦しそうに蹲っていたというのに。慌ててガーランドも立ち上がった。先を歩く青年の腕を掴む。
「待て! 何処へ行くつもりだ!」
『どこ……? おまえは教えてくれた。……宿とやらに私は赴く』
「なっ⁉」
『宿……ならば、私に適合する者がおまえ以外にもいるだろう。もう、おまえには頼まない』
空腹を満たせるのなら、別に誰でもいい。じろりと青年はガーランドを睨みつけた。なぜ、ここにきて引き留めるのか。青年はなにも答えないガーランドを一瞥し、腕を振り払った。そのまま踵を返し、すたすたと歩みを進める。
「お前は……。その適合者とやらと、安易に身を繋げるのか?」
 そうであってほしくない。ガーランドは考えていた。だが、歩みを止めた青年はガーランドを振り返ると、なんでもないことのように紡いでいった。
『対価なのだから、望むものがあるのなら……仕方のないこと、ではないのか?』
「……っ⁉」
『……もういいだろう。おまえを見つけることができた。逢うことができた。私はそれだけで十分だ』
腹が減っているので、失礼する。それだけを言い、青年は止めていた脚を動かしはじめた。どこか棘のある青年の口ぶりを、ガーランドは呆然と聞いていた。
 吸血鬼の生活習慣など、ガーランドは知る由もない。だが、吸血鬼の食事が血液なのは一応知識として知り得ていた。人間が食料を得るために対価として、貨幣もしくは代わりの物品を支払う。同じように、この青年も躰で対価を支払おうとするところまでは理解もできる。それでも……どこか納得がいかなくて、ガーランドはぎりり、歯噛みしていた。

『そうだ、忘れていた……』
 すたすたと歩いていた青年は、なにかを思いだしたかのように歩を止めた。くるりと振り返ると、そのままガーランドの元まで戻ってくる。
 ガーランドは兜の中で目を丸くしていた。青年はいつの間にか、白い大きな布を手に持っていた。何処に持っていたのだろうか? ガーランドが考える前に、青年は白い布を差しだしてきた。
『これを……おまえに返しておきたい』
「これは……。そうか、お前があのときの童子であったか」
 あのとき──母親を失い涙していたあの子どものことを、ガーランドは一度として忘れることはなかった。大きく成長し、またこうして姿を見せてくれるとは。ガーランドは胸を熱くしていた。
「……?」
……ということは。
 ガーランドはふと、思い返した。では、あのときの童子が吸血鬼であるのなら、母親も同等ということになる。おかしくはないか? 吸血鬼というものは、なかば不死に近い。銀の弾丸に心臓を射貫かれる、もしくは杭で打つなどの行為を行使しない限り滅することは不可であるはず……。ガーランドは首を捻っていた。あのときの子どもは……なにを言っていた?
『私はおまえを探して、あてもなくさまよっていた。この外套の印章の刺繍がこの国のものと一致したから、それを頼りにここまで来た。……逢えて嬉しかった。おまえが私に対価を求めないのなら、それでも構わない』
ほかのものを探すだけだ……。なんでもないことのようにさらりと告げられ、ガーランドは眉を顰めていた。『ほかのものを探す』……誰か別に身を繋げられる者を探すとも言い換えられる青年の言葉に、ガーランドの心には燻るものが生じていた。あのときの子どもが、こうして逢いに来てくれた。ただ、それだけでガーランドとしては十分だったのに。
『ありがとう』
 最後だからと、青年はにこりと小さな笑みをガーランドに向けた。そうして何度目かの踵を返し、そのまま歩みを進めていく。
 ガーランドはしばらく燻るものの正体を探っていたが、やがて我に返り青年を追いかけた。
 カラン……
『なぜ……?』
 驚いたのは青年だった。先ほど別れを告げた男が追いかけてきた。それだけなら、別に青年も驚かない。だが、ガーランドに抱きしめられている。その衝撃で、青年の頭から角兜が地に落ちた。澄んだ金属音を立て、兜はころりと整地された土の上に転がっている。
 抱きしめられながら、青年は考えていた。この男は初対面のヒトではない種族にまで抱擁できるほど、寛大な心を持ち得ているのだろうか。青年が首を傾げていると、頭上から憤怒の度合いの窺える怒声が降ってきた。
「ふざけるな! 貴様は儂のものだ! 血ならいくらでもくれてやる!」
『……おまえ、どうして──?』
 青年は眼を丸くしていた。先は断ってきたくせに。ガーランドの大きな体躯に包まれるように抱きしめられ、青年は戸惑っていた。すると、やはり怒りを含んだような声が耳に入り、青年は眼を丸くしたまま顔を上げた。
「対価でも、見も知らぬ相手と交わるだと……? そのようなこと、赦せるわけがなかろう」
『……私が穢れていると言いたいのか? ならば離せ。おまえとは、……んぅっ』
 青年はこれ以上紡げなかった。ガーランドになぜか唇を塞がれている。驚愕に青年は眼を見開いていた。いつの間にこの男は口当てを外したのだろうか……と。
 おおよそ見当違いなことを青年が考えているとは、ガーランドも思っていない。一度唇を外すと、驚愕で大きく眼を開けている青年の虹彩をじっくり観察した。青年の瞳は紅く輝いている。
 青年もガーランドの兜から覗く双眸をじっと見つめていた。獣のような鋭利な黄金色の中に煌めく紅が映る。青年は嬉しかった。見たかったのはこれだと。
 はにかむ青年を前にして、ガーランドの中でなにかが弾けていた。逃げることのできないように強く抱きしめ、もう一度青年の唇を塞いだ。
 別に穢れている、穢れていないなど瑣末事にすぎなかった。あれほど焦がれた童子が今、大きく成長した姿で腕の中に在る。食事とはいえ、こうして口づけができている。それだけでガーランドの胸は逸る。……この美しい青年をじっくり喰らいたいとすら、考えてしまう。
『んんぅっ、』
 青年の口内に、なにかが流し込まれてきた。それが鉄の味だとわかり、青年は躊躇なくこくりと飲み込んでいく。
 青年が飲み込めば、ガーランドは何度でも血液を口移しで飲ませていった。舌を軽く噛み切ったのだが、この程度ならガーランドの生命を脅かすこともない。
 青年が飲んだのはごく少量だが、ガーランドの血液が舌からの供給であることを考えてそっと唇を離した。青年の唾液にはポーションと同等の効果がある。口移しならじきに治るはずではあるが、やはり心配にはなった。手のひらをガーランドの頬の装甲に添え、心配げに見上げている。
「……その姿も唆るな」
 じっと不安げに見つめてくる青年に、ガーランドはくっと嗤っていた。ガーランドの血液が付着したのか、食料を得たためか、両方なのかはわからない。青年の唇は紅く色づいている。
『……対価を払おう』
「そうだな」
 どこまでも律儀な青年に、ガーランドは好感をもった。青年の身を解放してやると、今度は手をぎゅっと繋いだ。眼を大きく見開かせ、わかりやすく驚愕する青年に、ガーランドはひと言だけ告げた。
「儂の元へ来い」
『……』
 ガーランドに力強く告げられ、逃げられないように手を繋がれている。青年は頬をほんのり朱く染め、こくりと無言で頷いた。
『……ありがとう』
「あの程度で足りたのか?」
 どこか少し照れくさそうにしている青年を、ガーランドは身につけていた白の外套ですっぽりと全身を包んでやった。夜は冷えるというのに、剥き出しのままの青年の身がどうにも気になった。
 青年から返してもらったものは、やはり経年による劣化が多少なりと見られた。ガーランドは返してもらった外套を懐にしまい、新しい白の外套で身を包んだ青年の様子を窺った。
『足りない……。だが、嬉しい』
 まだ不足はしていると……偽ることなく正直に答えてくれた青年に、ガーランドはまた好感が持てた。しかし、青年の姿を改めてよく見ると、見るに耐えられないものがあった。
 青の鎧はまだよかった。汚れてはいるが、手入れをしてやれば美しく光り輝くだろう。問題はその下に着ているアンダーのほうだった。アンダーはズタズタに裂け、腰布とレギンスはさらにひどい有様となっている。青年の金糸雀色のマントまでがボロボロなのは、これは自然による劣化に思われたのだが……。
 どちらにせよ、青年は一歩間違えれば暴行被害に遭ってしまったのだと、誤解を招きかねないほどの姿をしていた。ガーランドはそのような青年の姿を人目がなくとも、とにかく隠してやりたかった。
「……っ」
……この姿で宿に行くつもりだったのか。
 はじめに宿を教えたのはガーランドなのだが、あのときは周囲が真っ暗な闇に包まれていた。そのために、青年がこのような姿でいることに気づかなかった。だが、今は違う。
 闇に支配されるこの時間に青年が現れたことに、こうして出逢えたことに感謝するしかなかった。吸血鬼ゆえにこのような時間帯に動いているのだろうが、それはガーランドにとってもありがたいことだった。
 月は雲間に隠れ、今は月光が降り注ぐことはない。それでも、淡く輝く青年のアイスブルーの瞳から、目が離せなかった。紅く光るときと、この淡い青と。どちらが青年の本来のものか、ガーランドは知りたくなった。後者なのはわかっている。それでも、紅く光るときの条件を知っておきたかった。
「お前のその紅の眼はいったい……?」
 口にして、ガーランドはしまった、そう考えた。いくら気になったとはいえ、躰のことを安易に訊いてもいいことではない。
 しかし、青年はきょとんとした顔でガーランドを見てきた。首を傾げ、心底わかっていない口ぶりでガーランドに問いかける。
『……おまえと同じ、だろう?』
「は?」
 今度はガーランドのほうがきょとんとしてしまっていた。兜のおかげで、間抜けな表情を青年に見られることはなかったが。なにが同じなのか、ガーランドはますます理解できなくなっていた。
『……あのとき、私には力が足りなかった。だから、母様を守ることができなかった。私は……見ていることしか──できなかった』
「……」
 疑問形で問いかけられたのに、まるで答えになっていない。そもそも会話が成立していない。なにが同じなのか? それをガーランドは知りたいのに、青年は全く違う話をはじめてきた。
 だが、あのときの話だと気づき、ガーランドは黙って青年の話を聞くことにした。青年は続けていく。
『泣くことしかできなかった私に、おまえは力を与えてくれた。私はそれが嬉しかった。私の眼が紅くなるの、はっ』
「ぐっ……」
 ビュウウゥ……
 突如突風が吹き荒れた。砂塵が舞うほどの強い季節風に、ガーランドは兜面を腕で覆った。隙間から目に砂が入っては面倒なことになる。だが、ガーランドは自身のことより、青年の状態が気になった。
「無事か?」
『……すごい風だな』
 青年は眼を庇うように手で顔を覆い隠している。風が落ち着ちついてから、ガーランドは説明するように続けていった。
「この季節特有のものだ」
 コーネリアを含め、この一帯を吹き荒らす季節風は、季節の変わり目に起こりやすい。これから移りゆく季節を感じ、ガーランドは空を見上げた。
 突風が雲を取り払ってくれたせいか、月は煌めいて優しい光を放っている。青年の艶を失った白い髪まで、さんさんと照らすように光らせていた。
 もったいない。ガーランドは率直に思った。子どものときは日に照らされた雪原のような輝く氷雪の色合いを持っていたのに、それが今や……。はー、ガーランドは思わず嘆息した。しかし、ガーランドは途中で嘆息をやめ、青年を見下ろした。
「……どうした?」
 柔らかい月明かりのおかげで、青年の異常にガーランドは気づくことができた。青年は身じろぐことをせずに、まだ顔を両手で覆っている。
「眼に砂が入ったのか?」
『……』
 ふるふる……、頭を左右に振るだけで、青年はなにも答えようとはしなかった。眼に砂が入ったのなら、水で洗うなりして取り除けばいい。だが、青年はそうではないと言う。いったいどうしたのか? ガーランドは口を開きかけた。しかし──。
「……っ、」
 ぴくり、ガーランドは人の気配を感じた。そして察した。だから、青年はこうして顔を隠しているのだと。そうなると、おそらく……。ガーランドはひとつの可能性に見いだした。
「移動するぞ、来い」
『……っ、どこへ?』
「人間に見られたくはないのであろう? 早くしろ」
 はぁ、ガーランドはもう一度嘆息した。これで本当に宿へ赴くつもりでおったのか? というより、この様子で本当に対価など払えるのか? ガーランドの脳裏にいくつもの疑問点が浮かびあがる。
「この先に儂の住まいがある。当面は其処で過ごすがよかろう」
『しかし、私は……異質の者。おまえたち人間とは生活も食料も、なにもかもが異なる』
「……っ、」
お前は先ほど頷いたであろうが。ガーランドは言ってやりたかった。なにをここで躊躇するのか。だが、青年の主張もわからなくはない。一時を過ごすのと、長き日を過ごすのとでは、わけが変わってくる。
 青年が頷いたのは、前者の考えがあったのだろう。おそらく、宿も。ガーランドの住まいで長く過ごすことになれば、少なからずの不安も生じる。ガーランドは考えを改めなおし、青年に向き合った。
「承知しておる」
正確には、承知しなければならない、だが。ガーランドとしても、異質のものなど使役する精霊以外では知ることがなかった。といっても、ガーランドの使役する四大元素の精霊を〝精霊〟扱いしてよいものならば、の話になるが。
『おまえはなにもわかっていない。私とともにいれば、きっと私は……おまえを』
「子どものときのお前は、儂をほしいと言っておらなかったか?」
『違う……。それ、は』
「……」
 顔を覆う手を離し、ぱっと青年はガーランドを見上げてきた。青年の虹彩は燃え上がるような強い紅だった。
「ほう……」
……この色合いの瞳を以前に見たような……?
いったい、何処で見たのか。見惚れている場合ではないのに、つい青年の燃えるような深紅の虹彩を見つめてしまった。
 青年もガーランドを見つめていた。なにかを言いたげに唇を震わせている。
『ガー……』
「話はあとだ。来い」
 見つめ合っていたせいで、人の気配はより濃厚なものとなっていた。この気配に、ガーランドには心当たりがあった。このような遅い時間に町人は外を出歩かない。危険な魔物の類の出没は、コーネリアにまで及んでいる。
 そのために、騎士団で定期的にコーネリアの町を警らしている。この気配は町を巡回する騎士団のものだろう。ガーランドは判断を下した。
 警らする騎士団員に見つかれば、身につけたボロボロのアンダーを理由に、青年は騎士団へ連行される可能性もある。それに、紅く輝く瞳の色を騎士団員に見られるかもしれない。
 ガーランドはなぜかそのことに反発していた。青年の紅の双眸を見ていいのは己だけだと。ほかの者には見せるべきではないと。妙な考えを抱くようになっていた。口当てを素早く装着し、青年の手を強く握りしめた。
「……早く来い」
『……』
 青年はガーランドの白い外套の前を、はだけることのないようにきゅっと握りしめた。そのままガーランドに手を繋がれ、ふたりはこの場をあとにした。