Ephemeral Waltz(FF1) - 3/5

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 第三夜 衝撃

『──さまッ、ウォーリア様っ、』
 青年の周囲に緩やかな風が舞う。ふわりと髪をなびいていく風に視線を向け、青年は優しげな表情を浮かべた。先までの紅だった瞳は硬質なアイスブルーに戻っている。青年は緩やかな風に声をかけた。
『見つからずに済んだようだな』
『はい』
 緩い風の正体は妖精たちだった。数体いる妖精の一体は光るものを携えている。妖精たちの無事を確認し、青年は安堵した。
『ウォーリア様、実は──』
 妖精によると、クリスタルを探している最中にガーランドが動きだした。そのために妖精たちは探すのをやめ、身を隠していたらしい。そして、ガーランドと青年が眠ってから、再び捜索にあたってくれていた……と。
『すまなかった。私の不注意で……』
『ウォーリア様、見つかったのですから』
 ふわふわと青年の傍を舞う妖精たちに謝罪を入れる。しかし、妖精たちはそのような謝罪は不要とばかりに制してきた。少し眉を下げる青年に、妖精は光るものを見せてくる。
『それよりこれを。先からずっと輝いております』
『ガーランドの力を感じとったのだろう。これほど近くにいるなら当然のことだ』
 妖精からクリスタルを受けとった青年は、手のひらの上でその煌めきを見つめていた。クリスタル自体も輝きを放っているが、朝日を浴びてさらに複雑な光を放っている。青年はきゅっと握りしめ、クリスタルを手の中に閉じ込めた。それでも指の隙間から光は洩れ出ている。
『……一度、家の中に入ろう』
 万が一、ガーランドが忘れものをしたなどの理由で戻ってくるようなことがあれば、妖精たちもこのクリスタルも見つかってしまう。そうなる前に……と、青年は妖精たちと家の中へ入っていった。

 ***

「これは……?」
 騎士団の詰所に入り、届いていた一報に目を向ける。ガーランドは【白の魔物の出没報告書】と記載されたその報告書を手に取り、まず最初に日付を確認した。〝白の魔物〟は昨夜にこの近辺で目撃され、それからこの報告書が作成されている。
「ふむ……」
 このコーネリアに白の魔物が現れたことに、ガーランドは妙な胸騒ぎがしていた。昨夜出会った青年と、白の魔物……。これは偶然だと、認めることのできる確固たる証拠がほしかった。
 時間を忘れるようにじっと報告書に目を通していると、コンコンと扉を叩く音がした。
「ガーランド様、まもなく謁見の時間です」
「そうか」
 時間の許す限り〝白の魔物〟という存在について調べておきたかった。可能なら、その正体について──。だが、謁見ならば仕方がない。これは、ガーランドが家を出たのが遅くなったことにも原因がある。
 謁見が終われば、また読みなおせばいい。考えたガーランドは、報告書を執務机の上に置くとそのまま部下と詰所をあとにした。

 謁見の間と呼ばれる王城内の大広間に、大勢の名だたる騎士が集められている。毎朝この豪奢な場で執り行われる、国王との謁見の義の中にガーランドはいた。謁見の間に敷かれた赤の絨毯の奥に設置された玉座には、コーネリア国王と、その隣には第一王女のセーラ姫が優雅に腰かけている。
「ガーランドよ」
「はっ、」
 国王に名を呼ばれたガーランドは、すぐさま前に出た。国王の前で身を屈め、敷かれた赤の絨毯を眺めながら次の言葉を待つ。このように名指しで呼ばれることに、ガーランドも慣れている。だが、今のこの時機で呼ばれたことに、悪い予感がしていた。
「実は──」
「──吸血鬼、ですか?」
 悪い予感というものは当たらずしも遠からず、であった。魔物討伐──白の魔物のほうだろうと思っていたガーランドは、少し間の抜けた返答をしてしまった。
 ガーランドの返答に、ふむと頷いた国王はそのまま続けていく。
「昔に封じていたらしいのだが……。どうやら知らぬ間に封印が解かれておったらしい。いつ、封印が解かれたのか……までは不明であるが、この早朝に確認がされた。それから我が国にも報告が入ってきた。まだ近くに潜んでおるかもしれん。被害が出る前に捕らえよ」
 コーネリア国王から吸血鬼の報告を聞き、跪いていたガーランドは衝撃を受けていた。国王の話によれば、吸血鬼を拘束していた鎖の劣化具合から、数年から十数年前には封印が解かれていたとのことだった。
 どうしてそれだけの期間に誰も気づかなかったのか。疑問は場にいた騎士たちのあいだで次々に生じたが、答えられる者は誰もいなかった。
 この時期にカオス神殿に何度か討伐に向かったのは、ガーランドの隊だけであった。しかし、ガーランド自身は吸血鬼を見てはいない。ガーランドの目的はあくまでもカオスであり、封じられた吸血鬼ではなかった。
 カオスに白の魔物だけでも限界に近いのに、吸血鬼まで加わるとは……。ガーランドは兜の中で目眩を起こしそうになっていた。しかし、それはどうにか踏みとどまった。この場にいる騎士により、別の報告が寄せられたからだった。
「吸血鬼の特徴ですが、白の魔物と同様に不明ではあります。しかし、黄色のベールのようなものを身につけていたとの目撃情報は得ました!」
「……っ⁉」
……黄色? 金糸雀色のことか。
 それが、あの青年が身につけていた金糸雀色のマントのことだとしたら? ガーランドの背中に冷たい汗が流れる。こくりと生唾を飲み込み、どうにか動揺を周囲に気づかれることのないように振る舞う。
 吸血鬼の特徴を聞いて、ガーランドはおおいに焦っていた。家に押し込んできたあの青年と、特徴は完全に合致する。白の魔物が青年のことだと考えはじめていたガーランドとしては、情報が錯綜してしまっている。
「本日の謁見は──」
「っ、⁉」
 気がつくと、いつの間にか国王への謁見は終了していた。ガーランド以外の騎士たちは、皆、各々の持ち場へと行ってしまっている。思考を巡らせて出遅れたガーランドは、誰もいなくなった謁見の間にひとりで佇んだ。
「むやみに考えたところで仕方あるまい」
 とにかく、帰ったら青年に詳しく事情を聞こうと、ガーランドは謁見の間をあとにした。

 謁見が終われば、次は騎士団長としての任を勤める。気が気ではないが、とにかく平然を装い、どうにか一日の任務を無事に終えることができた。
 大きく見える太陽が、西の空に傾くころだった。執務室にあるランタンの光源を調整していたガーランドは、ぐっと背を反らして躰を大きく揺すった。
 部下の騎士たちの剣技指導をしてからは、ずっと執務を行っていたので全身が強ばっている。コキコキと鳴る躰が、そろそろ壮齢となる肉体年齢を語ってしまう。くっ、ガーランドは苦笑した。
 夕方と呼ばれるには少し早い。しかし、いつもより早く無事に一日の執務を終えることができた。これにはガーランドも安堵から肩の力を抜いていた。だが──。
「ガーランド様、国王陛下がお呼びでございます」
「国王が? このような時間にか?」
 早くはあったが、今日はもう上がろうかという頃合いだった。早く帰り、青年の服を一緒に見てやりたかった。それなのに、よりによって国王に直接呼ばれてしまうとは……。運が悪いとガーランドは考えたが、ここは任を優先しなければならない。
 国王から言われることなど、ひとつしかない。安堵していたガーランドの心は、ここにきて深く沈んでいくようであった。はぁと大きな溜息をひとつ零してから、謁見の間に向かうべくこの執務室をあとにした。

「白の魔物……ですか」
 国王の前で跪き、頭を下げて向き合った。案の定……としか思えなかった。今朝騎士団に報告が寄せられ、ようやく国王の耳に届いたのだろう。容易に想像ができる。
 早朝に白の魔物の報告書が届けられて今になっているのは、吸血鬼の一報が大きいからなのであろうが……ガーランドは考える。
「近隣より目撃情報が寄せられた。どうやらこの近くに来ておるらしい」
 それは、朝に報告書を見て、謁見が終わってからも任務の傍らでガーランドが調べていたことだった。国王も同じ見識であることに、ガーランドの深く沈んだ心は警鐘を鳴らした。
「では、討伐に……」
 国王になにか言われる前に、ガーランドは先手をとろうとした。しかし、それは国王が手を出して制してくる。ガーランドは口を<ruby>噤<rt>つぐ</rt></ruby>んだ。
「いや、ガーランドは吸血鬼のことがある。そちらの警戒にあたってもらうので、今回は残れ。白の魔物討伐には、ほかの部隊に出てもらう」
「それは……。どうしてでしょうか?」
 吸血鬼にしろ、白の魔物にしろ、どちらも警戒をしなければならない。それなら両方の警戒にあたるほうがよいのでは? ガーランドは進言しようとした。
「どうしてだと? もし、お前が吸血鬼の討伐に出ておるあいだに、白の魔物がここコーネリアを襲ったら、誰が迎撃するというのだ? おそらく……お前の隊以外では難しかろう」
 ガーランドと部下たちを信頼してくれる国王の言葉はありがたい。だが、同時にそれはガーランドの手腕をアテにしているだけの言葉だった。
『ガーランド以外では、吸血鬼も白の魔物も対処できないのだ』──と。言葉の裏に隠された国王の真意を感じとり、ガーランドは深く項垂れた。
「お前はこのコーネリアの周辺を、しっかり警備しておいてほしい」
「……」
 腑に落ちない部分はあるが、国王の命令は絶対である。ガーランドは渋々了承し、謁見の間から退室した。
 吸血鬼に白の魔物……どちらも、このコーネリアにいるらしい。はぁ、重荷を感じ、ガーランドは嘆息した。

 騎士団に戻り、部下の騎士たちにそれぞれ命令を出す。待機を命じられたなら、鍛錬よりすぐに出撃できるように、準備を整えておかなければならない。早々に帰宅するつもりだったが、それもできなくなってしまった。
 謁見を終えてからも、ガーランドは執務室でひとり思案していた。どうも妙な胸騒ぎがする。
「ガーランド様、よければどうぞ」
「すまぬな」
 部下の騎士の淹れてもらった茶を飲み、ガーランドは先ほどの国王の話を思い返していた。吸血鬼にしろ、白の魔物にしろ、どうもあの青年と特徴が合致してしまう。吸血鬼とは、あの青年のことであることは間違いない。だが、あの青年は人を襲うなどするようには思えなかった。
「白の魔物、……か」
 吸血鬼に該当者がいる以上、ガーランドが気にするのは白の魔物のほうだった。ぽつりと呟いたつもりが、どうやら部下に聞かれていたようだった。
「ガーランド様、白の魔物を見られたのですか?」
「いや……別の部隊が討伐に出ることになるはずだが」
 騎士に問いかけられ、ガーランドはどう答えたものか、少し詰まってしまった。その騎士は興味深い表情を浮かべ、なにかを思いだそうとしている。
「なにか……、知っておるのか?」
 ことりと茶器を置き、ガーランドはその騎士に尋ねた。首を傾げてなにかを思いだそうとしていたその騎士は、ガーランドを見てから話しだした。
「私の聞いた話によりますと、白の魔物はカオスを探しているとか……。そのためにこの周辺をさまよっているとか聞きました」
「カオス?」
 意外な名を告げられ、ガーランドは刮目していた。そういえば、カオスが出没したという情報は最近寄せられていない。ガーランドは茶をもうひと口飲んでから、口当てをつけなおした。茶器を騎士に返し、話の続きを促す。
「白の魔物はカオスに嫁入りするためだとか、命を狙っているとか……このあたりの情報は曖昧なのですが、聞いたことはあります。あと、白の魔物は夢魔でもある……と」
「は?」
 騎士の最後のひと言がかなり衝撃的で、ガーランドは兜の中で間抜けな表情を作りだしていた。
……夢魔? あの青年が白の魔物ではないのか?
 白の魔物が吸血鬼と同一の魔物なら、きっと青年を示すのだろうと、ガーランドは考えていた。しかし、夢魔ときた。種族が全く異なる。では、白の魔物はあの青年ではないのか? ガーランドが考えだしたときだった。
「白の魔物は相当好いらしいですよ。しかも、ものすごい美人だそうです。具合は好いし、手練手管も巧みらしくて……情交した男は、精をすべて絞り取られると聞きました」
「……」
 人違いならぬ魔物違い。ガーランドはそう判断した。あの青年がそのようなことをするはずがない。確かに血液を求める対価として、その身を差しだそうとする奴ではあった。だが、青年にそのようなことができるとは、ガーランドも思っていない。今朝のあの様子を考えると……ではあるが。そのことに、ガーランドは他人事のように安心していた。
 青年が白の魔物なら、討伐対象になる。そうなれば匿うなり、逃がすなり、討伐するなりの選択肢を迫られる。しかし、その懸念はなくなったことに、ガーランドはホッと胸を撫で下ろしていた。しかし……。
「白の魔物は、はじめに男の血を求めてくるそうです。僅かな血液を差しだすだけで、美しい裸体を惜しげもなく捧げてくるそうですよ。私も一度会ってみたいものです」
討伐命令が出たのでしたら、白の魔物も終わりですかね。苦笑する騎士の横で、ガーランドは呆然としていた。魔物違いと思っていたが、後半の話は完全にあの青年と合致する。
 あの青年は最初に言っていたではないか。適合者は己以外にもいる……と。では、適合者とはそうやって身を繋げて……?

『おまえが私に対価を求めないのなら──ほかのものを探すだけだ……』

 ガーランドの脳裏に浮かんだ青年の言葉が、心にグサリと突き刺さる。初心と思えるほどの不慣れな様子を見せていた青年の寝台での態度と、あのときの言葉はまるで真逆のものだった。
「っ、」
 ここでガーランドにひとつ思い浮かんだことがあった。青年の見せたあの態度が演技であったのなら? そうやって初心を装うことで、男を悦ばせるのが常套手段であったのなら? ガーランドは青年と身を繋げてはいない。青年にその経験が豊富であるかどうか……知るはずなどない。白の魔物が青年を示すものではない、魔物違いだと否定できるだけの理由は──これでなくなった。
 ガタリ、ガーランドは席を立った。ガシャガシャと派手な音を立て、帰り身支度を急いで行う。
「……すまぬ。儂はしばらく休ませてもらう」
「ガーランド様? ガーランド様……っ」
 ガーランドは部下を残し、騎士団を……それから王城を飛び出した。先の話をすべて鵜呑みにしてはいけない。まずは青年に問いただしたかった。

 ***

『改めて訊く。この書をどうしておまえが持っている?』
 青年はガーランドの部屋にあった書架から戻すことなく、一冊の書をずっと手に持っている。
 ガーランドが風呂の準備をしているあいだに、青年は部屋全体を見てまわっていた。そのときに部屋にあった書架に眼がいき、そしてこの書を見つけたのだった。
 これは、青年がまだ小さかったときに、コスモスから受け取るはずのものだった。失われたものだと思っていた青年は、このような場所で見つかったことに大きく驚いた。そしてその理由を訊き、一部は納得できた。
 熱くて飲めない茶を冷ます少しのあいだに、ガーランドは教えてくれた。長話になると言っていたわりに、結構すんなりと教えてくれたことに、こちらも青年は顔に出すことなく驚いたのだが。
『……お前の母だという女性から譲り受けたものだ。儂の力を抑える……とか言っていたが──』

──あの時、ガーランドはひとりの女性と少し話をした。
 森のなかで出会った不思議な女性は、ガーランドに一冊の書を手渡してきた。それがなにか……ガーランドは瞬時に理解した。迎えに来た騎士がうるさく急かしてくるなか、ガーランドは吐血を繰り返す女性に問いた。
『この書は……』
『それは、あなたが持っていてください。あなたの力を抑えてくれます』
 受け取ったはいいが、扱いに困るものだった。少なくともガーランドの手に負える代物ではない。そのために返すつもりでいたが、女性から思いもかけないことを言われた。
『私の力?』
 ガーランドは手にした書を観察するように見た。重厚な皮の装丁だけで、希少価値の高い魔道書の類のものであることはわかる。ただし、内容を確認しようとは思わなかった。万が一のことを想定してのものだった。
『それを持っていてください。私の子が大きくなれば、その子の手に……』
『返してやればいいのか』
 ガーランドは女性の言葉の続きを引き取って答えた。女性は美しい微笑みを見せ、こくりと頷く。ガーランドは〝女性の子ども〟が誰か……わかっていなかった。しかし、この女性の持つ底知れぬ輝きが、子どもを教えてくれるのではないかと。不思議な感覚に陥っていた。
 ガーランド自身は全く気づいていなかった。このとき、手に持つ書の放つ小さな光により、ガーランド自身も強い光の膜に包まれていたことを──。

『……そうか』
それでは見つからないはずだ……。青年は瞼を閉じた。あの時のことを思いだす。あの時のコスモスは、クリスタル以外にもこの書を所持していた。それが、少し場を離れただけでなくなった。
 当時、青年はクリスタルだけを子どものころに受け取った。本来ならば、この書も一緒に受け取るはずだった。それなのに、子どもだった青年は得られなかった。
『この書があれば、カオスを封じることができる』──と。
 コスモスから直接教えられたはずなのだが、子どもはそのことを記憶してはいなかった。どこで知ったのだろうか? それでも、この書にそれだけの力があることは、子どもだった青年も知っている。ただ、青年があの時はまだ子どもだったから、直接ガーランドに手渡したのだろうと推測する。
 もっとも、ガーランドとコスモスが出会った経緯までは、青年も知ることはないのだが……。
 この書のことをガーランドは知っていて、それでも手元に置いているのだろうか。青年は疑問に思った。だが、それをガーランドに訊くことはしなかった。もし知っていたら……これは問題ない。問題があるのは、知らなかった場合だった。ガーランドに余計な情報を教えることになる。青年はこの件について口を噤むことに決めた──。

 それからは青年が風呂に入ったことで、すべてが有耶無耶になってしまった。これは青年にとっても反省すべきことになる。
『……この書があれば、少しは私に有利に働くだろうか』
それとも──? ガーランドとの昨夜の対話を思いだしていた青年は、ぴくりと小さく身じろいだ。空気の気配から、なにかの異変を感じとる。手に持つ書を膝に置き、視線を動かして周辺を見まわしていく。
 相変わらずなにもない部屋しか、その瞳は映していない。暖炉からはパチパチと薪の燃える音が聞こえてくる程度だった。
……気のせいか。
 どこか空気に異質さは感じるものの、周囲には特に変動を感じない。嫌な予感は胸に残るが、青年は大きく息をついた。異質に感じてしまうこの空気に、かなり緊張していたようだった。
 読書途中だったことを思いだし、青年は膝に置いたままの書の頁をペラリと捲る。しかし次の瞬間、青年の艶のない氷雪色の髪はふわりと舞い上がった。
『────様! ウォーリア様っ‼️』
『どうした?』
 妖精が数体、青年の周辺に集まってきた。血相を変え、なにかに怯えている様子を見せる。青年は妖精の一体に視線を向けた。妖精の言いたいことは、青年も理解している。先ほど青年が感じたもの……、それを妖精も伝えたいのだろうと。
『カオスが……目覚めました』
『やはり……』
遅かったか。嫌な予感が的中してしまったことに、青年は眉を歪めて項垂れた。先の異質な空気は、カオスが目覚めてしまったことによるものなのか。青年は理解した。
 可能であるならば、目覚める前に滅したかった。カオスが覚醒してしまったなら、青年に勝ち目はほとんどない状態だった。コスモスが持っていたこの書──光の書があれば別だが。
 しかし、それは今の青年では使うことができなかった。書を何度も読み、詠唱を続けたものの、力は発動しない。別の力が必要になるのか、それとも青年の持ち得る力の属性のせいなのか。
 どちらにしても、青年の持つクリスタルだけでは、カオスを滅するには不十分すぎた。
……先に感じたものが、気のせいであればどれほどよかったか。
 どこかで青年は否定をしたかった。コスモスは消え、今は自身しかカオスを封じる可能性のある者はいない。
 できるならば、カオスが大人しく眠りに就いているあいだに始末しておきたかった。好機は何度もあったはずだった。それなのに、それを行わなかったのは、青年自身が躊躇ってしまったからにすぎない。完全な自業自得──青年は瞼を閉じた。後悔しても、もう遅い。
 せめて、自身の能力が最大限に使用できる深夜に勝負を決めるしかない。問題は、それをさせてくれるかどうか……だが。膝に置いた拳にぐっと力を入れると、開いていた書の頁にくしゃりとシワが寄った。
 くしゃくしゃになった頁を気にすることもなく、青年は書をテーブルに置いて立ち上がった。装備を整えるために、ガーランドに着せられていた服を脱いで鎧を装備していく。
……完全に見誤ったか。
 少なくとも、もう少し先の話だと考えていた。そのためにゆっくりと近づいていったというのに。ガーランドの所在をようやく見つけた……と思った矢先のこの事象は、青年にとっても予想外なことだった。そのせいで青年自身の準備が整っていない。
 クリスタルをぎゅっと握りしめ、身を小さく震わせる。瞼を少し伏せ、ゆっくりと心を落ち着かせた。青年が臆すれば、妖精たちがさらに怯えてしまう。そうなる前に、青年は妖精たちに伝えた。
『君たちはこの地を去れ。巻き込まれる』
『ウォーリア様。それでは……あなた様が──』
 妖精たちは躊躇してくれている。しかし、青年が逃げることはできない。不器用にも笑みを妖精たちに向け、安心させるように囁く。
『大丈夫だ……。ガーランドは私が滅する』
『ウォーリア様……』
 青年は小さな声で詠唱し、宝玉の嵌め込まれた光の剣と盾をこの場に出現させた。
 大きな力がぶつかり合えば、周辺に被害が及ぶ。それだけは避けておきたかった。可能なら、ガーランドのこの小屋を戦場にはしたくない。青年は考え、小屋を出るための支度をはじめる。カオスを引きつけるために、コーネリアを急いで出ていくためだった。
 たった一晩──。この一晩で、どれだけのものを得ただろうか。青年は考えた。服を買ってもらう約束は、もう果たしてもらえそうにない。
 くすりと青年は微笑い、窓から外を見る。日は西に沈みかけているが、まだ少し高くにある。青年の能力を奪い去るには、太陽は都合のよすぎるものでしかない。せめて亡骸を誰にも発見されることのない場所で、青年はカオスと対峙したかった。身はズタズタに引き裂かれて無惨な状態にされることは、青年にも、もう……わかっているのだから。
『君たちは早く去るんだ。……今まで、ありがとう』
 最期になるかもしれないと、青年は妖精たちにこれまでの礼を伝えた。妖精の何体かは涙を流している。
 暖炉の炎が確実に消えていることを確認し、青年は妖精たちを残して家を出た。その姿はガーランドと出会ったときのものだった。すなわち、ボロボロのアンダーに、青の鎧と兜を身につけた昨夜の姿──。ボロボロであっても金糸雀色のマントだけが、日の下がりかけた赤い陽光を受けて鮮やかに輝いていた。
 ボロボロになったアンダーやマントがまだ捨てられていなかったことに、青年は思いを馳せる。捨てる時間がなかったのか、青年の私物だからガーランドとしても捨てられなかったのか。どちらにせよ、青年には嬉しいことだった。
 最後にガーランドという男の優しさに触れ、ウォーリアの心に灯るものができた。なるべくなら、この灯された心を消されることのないように……願いながら、青年は町を走り抜けた。

 空は夕焼けで鮮やかな赤紫色に染まり、浮かぶ雲も残陽で輝いている。夕暮れに向かう空の下、青年は体力の限界を超えてもずっと走っていた。
 どれくらい走っていただろうか。右も左も関係なく森のなかを駆けていた青年は、そこでぴたりと脚を止めた。夜まで身を隠すために森に入ったことだけは記憶している。だが、この場所を選んだつもりは、青年にはなかったはずだった。
 青年は森の奥に存在する、朽ちた神殿の前に来ていた。
『カオス神殿……? 私は、どうしてここに……?』
「貴様が……選んだ場所であろう」
『──……っ、⁉』
 背後に男が立っている。否、正確にはガーランドらしき大男……だった。ガーランドのまとう白銀の重鎧は、なぜか漆黒に変化している。厳つい兜から見える双眸は、闇色に光る鋭い黒紅だった。
 迫り来る強大な闇の気配に、青年の背筋はぞわっと総毛立った。肩越しに振り返っていた青年は、思わず後ずさる。鉄靴で土を擦る音が耳障りなほど響いた。
「何処へ行こうとする? 自ら選び、此処へ来たのではないのか?」
 凄まじいほどの闇の覇気をみなぎらせ、漆黒の鎧の巨躯は近づいてくる。カシャ、カシャ……と鳴る漆黒の重鎧の擦れる金属音だけが、静寂なこの森のなかで不気味なほど響き渡る。
 森全体がざわめいている。漆黒の重鎧のまとう闇の覇気が強すぎて、風はないのに周辺の樹々は大きく揺らめいていた。
『っ、⁉⁉』
 ひゅん‼️ 一陣の旋風が青年の周囲に巻き起こる。それだけで青年の周囲にあった樹々は、一瞬で薙ぎ倒されていた。漆黒の重鎧は挙動ひとつ見せていない。腕も動かしていない。まとう闇の覇気の鋭利な力だけで、周辺の樹を倒したことになる。
『……』
 青年は無言だった。言葉など、出るはずもない。青年の眼は大きく見開かれ、その場でカタカタと震えあがる。持ち得る力の差が歴然で、どう足掻いても青年に勝機など見いだせるものではなかった。
「……積もる話もあろう。中で聞こうか、……ウォーリア」
『……っ⁉』
 青年は気づいた。日は高く昇っていても、生あるものに影はつく。日が沈みかけている今なら、影は長く伸びる。ヒトではない青年にも、二本の角が伸びた鎧姿の影を映していた。しかし、漆黒の巨躯のほうは……禍々しいほどの異形の影ができている。少なくとも漆黒の重鎧の影ではない。
 青年の表情はみるみる強ばっていく。この影の正体を青年は知っている。萎縮してしまいそうになる自身の心と躰を叱咤させ、青年は漆黒の巨躯を見据えた。
「儂に畏れをなし、それでも気丈に向かってくるか? それとも……」
 くくっ、巨躯は天高く昇る日を見上げ、不敵に嗤いだした。ある程度嗤うと、顔を下げて青年を蔑むように見下ろす。青年の種族を思いだしたようだった。
「この奥でいろいろと確かめ合おうか? その身をもって、な」
『……ッ、』
 ぎり……、音が出るくらい、青年は巨躯を睨みつけた。しかし、青年は巨躯の主張に従った。陽光のさんさんと降り注ぐこの場より、日の射さない仄暗い神殿内のほうが、青年にとっても都合の良いものではあった。剣を下ろし、青年は付き従うように、巨躯のあとに続いて神殿内へと脚を踏み入れた。