Ephemeral Waltz(FF1) - 2/5

            2020.4/04 2022.1/13

 第二夜 青年の秘密

『……ここは?』
「儂の住まいになる。儂ひとりで住んでおるから、気兼ねする必要はない」
 青年は町外れの小さな小屋に案内されていた。室内を見まわし、呆気にとられている。ヒトの住む家が聞き及んでいたものや、想像していたものとまるで異なり、青年は二の句が告げないでいる。
『……』
……随分生活感とやらに欠ける。
 それでも、心に思うことはできた。ガーランドに案内された住まいとやらは、とてもではないがヒトが住めるような部屋ではなかった。
 部屋にはテーブルと椅子、それから大きな長椅子と壁面には書架がある。綺麗なのは硝子扉のはめ込まれた書架とテーブルと椅子くらいで、あとのものは調度品を含めて埃にまみれている。床になにも散らばっていないだけ、良いほうなのかもしれない。けれど床も少し埃っぽくて、歩くだけで足跡が残りそうであったが。
 その少し埃っぽい室内にガーランドは入り、テーブルに持っていた書を置くと、床ではなく暖炉の掃除をはじめだした。
「すまぬな。これを先に掃除せねば使えぬでな……」
『……別に寒くはないが、』
まず埃だらけの床の掃除とやらが先ではないのか。眉を顰めた青年は考えたが、言葉にはしなかった。家主であるガーランドがそのままでいいのなら、わざわざ口を挟むことはしない。青年が黙っていると、ガーランドは勝手に話を進めてきた。
「これは湯を沸かすのにも使う。……これで使えるな」
 ガーランドは暖炉の中から大量の灰を取り除くと、今度は薪と着火用の紙を押し込んでいった。それから、なにかを小声で唱えはじめた。
「────」
 青年は黙ってガーランドの詠唱するほのおの魔法に耳を傾けていた。瞼を閉じ、魔法の種類を探っていく。
『…………』
……これは、魔物の力……ではないな。
では、なにを使っている? 青年の見ている目の前で、ぽっと着火用の紙に火がついた。すぐに薪に燃え移り、暖炉の中でメラメラと炎を大きくしていった。燃え盛る炎のおかげで、室内はすぐに暖まっていく。
 ガーランドは暖炉の上に、水を入れたケトルを載せた。底の濡れたケトルはしゅうしゅうと音をたて、やがて静かになっていった。
「湯が沸いたら茶にしよう。儂は風呂の掃除をしてくる。薪がなくなったら、暖炉に投入しておいてくれぬか」
薪は其処だ。ガーランドに指をさされ、青年は部屋の隅を振り返った。薪は綺麗に積み上げられている。
 部屋は埃が積もっているというだけで、よく見ると綺麗に整えられている。埃をとる掃除をしているだけの時間がとれないことは明白で、このことからもガーランドの几帳面さが窺えた。
 しかし、青年が疑問に感じたことは別にあった。部屋の埃のことも忘れ、こてんと首を傾げた。
『風呂? 掃除?』
「風呂も暖炉と同じでな。釜の灰を取り出さねば湯を沸かせぬ。……風呂くらい、入ったことはあるだろう?」
 ガーランドは嫌な予感をしていた。青年はまるでわからないといった表情を向けてくる。青年のきょとんとした顔は、ガーランドの心を鷲掴みにするには十分の威力を持ち得ていた。無表情に近い青年の感情の無に、多少なりの有を与えてくれる。
 この十五年──。長い片想いをしていたことに、ガーランドは複雑な面持ちだった。片想いの相手がまさかの異種族、しかも人間にとって悪い影響しか及ぼさない者だとは、当時は考えもつかなかった。
 はぁ、思いもよらない事象に、ガーランドは嘆息する。妻を娶ることもせずに独り身を貫いた結果がこれとは……。顔に手をあて、天を仰いだ。
『……どうした?』
「一応訊くが、風呂はどうしておった? いや……、身を清めるときはどうしておった?」
〝風呂〟という単語を知らぬだけの可能性もある。考えたガーランドは、改めて言いなおすことにした。
 きょとんとした表情を一転させて、今度は心配げに見つめてくる青年に、ガーランドはちらりとだけ視線を下げた。無垢なアイスブルーに見つめられ、心が揺れ動きそうになった。このまま、青年の言う対価を奪ってしまいそうになる。
 ごほん、ガーランドは咳払いして揺れ動く心に叱咤した。青年はあくまでも食料に対しての対価を払うためであり、邪な考えなどを持たぬはず……言いきることはできないが、なぜか確信はあった。
『身を清める? そのような必要があるのか?』
「は?」
 だが、青年からは予想外の言葉が返ってきた。兜の中でガーランドはまたしても間抜けな面を晒し、声を発していた。兜がなければ相当恥ずかしいことになっていたのだが、そこは幸運だったとしか言いようがない。ガーランドはホッと胸を撫で下ろしていた。
『おまえたち人間は面倒な種族だな。力がみなぎっていれば、身は綺麗に保てる』
「……」
……では、その汚れ果てた姿はなんだ?
 言ってやりたかったが、喉元でなんとかガーランドは抑えつけた。よくわからないが、吸血鬼という種族は風呂が不要らしいことは理解した。そういえば。ガーランドは思いだす。吸血鬼は確か水が苦手である……と。
 しかし、今の言い方を逆に返せば、今、この青年は力をみなぎらせていないということになる。はあぁ、ガーランドはまたひとつ大きな嘆息をした。
 とにかく、風呂の掃除を済ませ、早く湯を沸かしたかった。急がないと、暖炉に載せたケトルの湯が沸騰してしまう。
「とりあえず、儂は外に出る。なにがあっても外に出るでない。わかったな」
『……わかった』 
 納得したのか、できていないのか。ガーランドにはわからない。だが、青年の言葉を信じ、ガーランドは外へ出ていった。

 手早く風呂の準備を整え、ガーランドは部屋に戻ってきた。室内はいい感じに暖められている。鎧もそうだが、防寒具を脱いでアンダーで過ごせる適温に室内がなっていることに、ガーランドとしてもひとまず落ち着いた。ガーランド自身は寒さに耐性を持っているが、吸血鬼であるこの青年はどうか不明だった。
 このあたりのことも、今後を過ごすうえでしっかりと聞いておかねばならないと心に留め、ガーランドは青年に目を向けた。
『……』
 パチパチと薪の燃える音も気にならないのか、青年は一冊の書を開いてじっと見ている。それは、ガーランドの借りてきた魔道書ではなく、以前遠征に出た際に持ち帰ってきたものであった。
……読めるのか?
 ガーランドは考えた。だが、青年は口元に手をあて、黙々とその書に眼を通している。時々唇が小さく震えているので、内容も理解できていることがわかった。
「湯が沸いておるな。茶を淹れよう」
『っ、⁉』
 ガーランドが声をかければ、青年は驚いた様子を見せてから、パタンと書を閉じた。元あった書架に書を戻すことはせずに、手に持ったまま青年はガーランドを見上げてくる。少しだけ照れたような表情を浮かべて、青年は少しはにかんできた。
『……ありがとう』
 その表情に、ガーランドの心は揺れ動いた。このような表情を出せるのか、と。大きく嘆息し、ガーランドは慣れた手つきで手早く茶を淹れていった。なにかをして誤魔化す必要があった。この青年の存在はガーランドにとって、いろんな意味で毒にしかならなさそうだった。
『訊きたい。この書を……どうして、おまえが』
「それは……」
 ガーランドは茶の準備を進めながら、青年の手にしている書を一瞥した。同時に内心でひどく驚いている。テーブルに置いた魔道書ではなく、書架に入れておいたはずの古い書を、青年が見つけて手にしていたことに。
 ガーランドは説明するか、思いあぐねた。この書については、ガーランドも不明な点が多い。青年に説明したとしても、理解してもらえるか……ガーランドにも状況判断が難しかった。
「長くなるゆえ、あとで説明しよう。……まずは飲め」
 ガーランドは淹れた茶を青年に渡すと、自身も青年の向かいの椅子に腰を下ろした。それから、自分で淹れた茶をずずっと啜る。青年の様子を窺えば、熱い茶は苦手なのか、口に合わないのか、飲む素振りは見受けられない。
 飲む飲まないなど、それは青年の勝手だった。だが、ガーランドは気になった。吸血鬼族の食に関しては、さすがにガーランドもそこまで詳しくはない。
「……口に合わぬか」
 可能性として高いほうを、ガーランドは口にしていた。しかし、青年はぶんぶんと大きく左右に頭を振った。ちらり、ガーランドを窺うように見上げ、申し訳なさげにポツリと洩らした。
『熱いものは飲めない……』
「そうか。ならば時間が経てば冷める」
 口に合わないわけではないようなので、ガーランドも胸を撫で下ろす。茶を飲み、ガーランドは風呂の用意のために席を立った。湯を溜めて沸かすだけが準備ではないことを、ガーランドはここで青年に教えようとしていた。
『改めて訊く。この書をどうしておまえが持っている?』
 しかし、青年にまたしても書のことを訊かれ、ガーランドは動きを止めた。青年を見下ろすと、じっと見つめてくる。射貫いてくるような凛としたアイスブルーの瞳に見惚れてしまいそうになるが、ガーランドは黙って部屋の隅へと移動した。
「あの書は──」
 青年へ説明をしながら、ガーランドは部屋の隅に置いてある箪笥の引き出しを開けた。中には大小様々な湯布が詰め込まれている。その中から少し大きめの布を取り出した。それから、ガーランド自身のアンダーも一緒に手にした。
『そうか』
 納得できたのか、青年は瞼を閉じて俯いていた。ガーランドははぁとひとつ溜息を零すと、青年に湯布と替えのアンダーを押しつけるように手渡した。
 俯いていた青年は、ガーランドのこの行動の意味がわからず、押しつけられた湯布や着替えを持ってきょとんとしている。青年の少し困惑げな表情に、ガーランドは言葉に詰まってしまった。
「まだ熱くて飲めぬなら、今のうちに風呂へ行け。そのような乱れた姿で居られても見苦しい」
『……っ』
 これは嘘だった。だが、そうでも青年に伝えねば……今の青年の表情やその姿はいろいろと危険だった。ガーランド自身が魅了されてしまいそうな蠱惑的な身なりをされていれば、間違いがおきてもおかしくはない。
 否、間違いを犯してもガーランドに非はない。その身を捧げようとしてきたのは、間違いなく目の前にいる青年なのだから──。
「さっさと行かぬか。喰らい尽くされたいか?」
『…………私がおまえを喰らう、だ。選ぶ言葉を間違えてはいないか?』
「……ほう、そうきたか」
『おまえこそ』
 冷たいアイスブルーの瞳をちろりと動かし、青年はガーランドを見据えてくる。威圧的なガーランドに物申せる者など、騎士団には存在していない。そのガーランドに畏れを抱く様子のない青年に、ガーランドはくくっ、嗤った。
「……本気で襲われたくなければさっさと行け。そのボロボロの服は処分するぞ」
『……なぜ?』
「明日にでも新しいものを買ってやる。とりあえず今宵は儂のもので我慢しろ」
『……』
 青年がなにも所持していないのは明白だった。青年はガーランドの外套しか手に持っていなかった。ボロボロの身なりを隠すこともせずにここまで来たのなら、手荷物などあるはずもない。ガーランドは半ば呆れていた。
『……すまない。では、風呂とやらを借りる』
「出たら髪の手入れをしてやろう」
 はぁ、ガーランドは嘆息していた。思わず苦笑を浮かべてしまう。どうやら、扱いの相当面倒くさそうな青年に感じたからだった。
 子供のころは泣いているところしか見ていなかったので、性格まではわからない。だが、ガーランドはすでにひとつの決意をしている。そのために青年を風呂へ行かせた。青年に見られるわけにはいかない。

『なるほど……』
……これが風呂というものか。なかなか気持ちのいい……。
 ちゃぽん。湯に浸かり、青年は考えていた。ガーランドの沸かしてくれた湯の温度は心地よく、身を清めることのない青年には初めての経験となった。
……水浴びでもここまで好くはならないのにな。
 くすりと青年は口角を上げていた。〝風呂〟に入る習慣はなくとも、水浴びくらいはする。そのことを青年はガーランドに言わなかった。黙っていることに青年は決め、含むように笑んでいる。
『────様。ウォーリア様、楽しそうですね』
あなた様が珍しい……。青年の耳の傍から柔らかい声が聞こえてきた。ウォーリアと呼ばれた青年はちらりと声のしたほうを向き、瞼を閉じた。
『……ようやく見つけた。私は嬉しい』
『あの大男が……ですか?』
 柔らかな声は多数から聞こえてくる。青年は声を追いかけることなく、さらりと答えた。
『牙の抜けた今の状態なら……私でも十分だ。万が一に備えておく必要はあるかもしれないが』
『……大丈夫ですか?』
『私は母様を……コスモスを滅したあの男を許せない』
たとえ、どのような理由があろうとも……。唇を噛み、悲愴な面持ちを見せる青年に、声は聞こえなくなった。
 しん……、静かになった浴室にの扉に、大男の影が映る。扉は半透明の硝子が使用されており、互いの姿が映しだされている。青年は影の正体に気づき、扉に背を向けた。湯舟に浸かっているので、大男──ガーランドには青年の後頭部しか見えていない。そのことに、風呂初体験の青年は知る由もなかった。
「あまり長く浸かっておると、のぼせるぞ」
 扉の向こうから声が聞こえてくる。扉越しにガーランドに声をかけられたことに、湯に浸かる青年は気づいた。扉のほうへ振り返ると、くらりと周囲がまわりだす。
『のぼせ、る……? おかしい、頭がクラクラす、る……』
 ガラリ
「……ッ⁉ おい、しっかりしろ!」
 青年は目の前で急激に変化していく様子を捉えることはできなかった。倒れそうになる青年が浴槽内で沈まないように、ガーランドはしっかりと抱きしめている。全身が湯で濡れることも気にせずに、ガーランドは青年の頬を優しく叩いていた。
「意識はあるか? しっかりし──」

『──リア、ウォーリア』
 柔らかな声を耳に入れ、ウォーリアと呼ばれた子どもは周囲の異変に気づいた。子どもは慌てて名を呼んでくれた儚げな美しい女性の傍へと近づく。そして、声を失った。女性が肌身離さず持っていた、ある一冊の書がその場からなくなっている。
『コスモス、どうしたっ? ここで……なにがあった⁉』
 なくなった書について、子どもはコスモスと呼んだ女性に叫ぶ。書が失われただけではなく、女性自体もひどく弱り果てている。飲み水を得るために、子どもが少し離れた数分のことだった。
 たったそれだけのことで、この女性は死に向かうほど衰弱している。書を紛失した──奪われたことに起因するのではないか。両の手に持っていた水の入った小瓶を投げ捨てて、子どもは女性の傍へ駆け寄った。
 硝子の割れる音がしたが、子どもは女性の名を何度も呼んだ。女性の意識は混濁しているのか、瞳は虚ろなものになっている。
『私はもう、長くありません……。ですから、あなたにこれを預けます』
 コスモスと呼ばれる美しい女性から、子どもはひとつの結晶を受け取った。きらりとほのかな光を携えるその結晶を、子どもはじっと見つめていた。
『コスモス、これは?』
『光の力を宿したクリスタルです。私にもう少し……力が残っていれば、もっと輝くのですが……』
『コスモス!』
 その場に蹲る女性の背中を、子どもは何度もさすった。はぁはぁと繰り返す荒い息遣いが、女性の状態が悪いことを如実に示している。
 隠してはいるが、女性の口元は赤く染まっていた。それを見てしまった子どもは、眼を大きく見開いて躰を震わせている。
『私に……もう、力は残されておりません。あとは消滅するのみです』
『……っ、』
 女性の言葉の意味を理解した子どもは、瞳から大きな涙を流しはじめた。ぽろぽろと流す涙を女性は指の背で拭い、にこやかに微笑みかける。
『……これで、しばらくのあいだは、カオスも大人しくしているでしょう。そのあいだにあなたの力で滅してください。そうすれば、ガーランドも──』
『コスモスっ、コスモ……す』
 しかし、言葉途中で女性は息を引き取った。子どもはその場でずっと泣き続けていた──。

 ■■■

「────、無事か?」
『……おまえは』
どうして、ここに……? 眼を覚ました青年は、ここが浴室ではないことに気づいた。まだ頭は重く、気持ちも悪いし吐き気までしている。
「湯に浸かりすぎたな。儂が覗きにいかなければ、そのまま倒れておったかもしれぬ」
『……そうか、迷惑をかけた』
 躰が思うように動かない。少しこの男の傍に近づきすぎたか。青年はぼんやりと考えていた。首だけを動かし、青年はガーランドをじっと眺めていた。
 青年を湯船から出すときには、ガーランドは鎧を脱いでいた……ように感じた。青年が風呂に浸かっているあいだに装備を外したのだろうか。警戒されていないのは、この場合ありがたいことなのか。考えながら、青年は訝しげにガーランドの瞳を見つめた。
 ガーランドの黄金色の双眸は、青年を優しく見つめてくる。青年は少しだけ眉を下げた。本当に心配をしてくれていたことが、ヒトの感情に疎い青年にも理解できてしまう。
『……』
……夢、だったのか。
 ガーランドの視線を逸らすためにも、青年は瞼を閉じた。ひたいに冷たい布をあてられている。ガーランドがしてくれたものだとわかり、青年は少しだけ口元を緩めていた。
……母様、この男は随分と違うようだ。
 夢を視ていたことに、青年は複雑な思いでいる。そして、夢の続きを思い返すかのように、視ていたものを頭の中で映しだした。

『ウォーリア、最期にお願いがあります』
『なんだろうか』
 クリスタルを受け取った直後に、女性に声をかけられた。クリスタルを見ていた子どもは女性に向きなおった。
『最期に、母様……と。呼んでくれませんか?』
『コスモス?』
『血の繋がりはありません……。ですが、あなたとは……本当の母子のようでありたかったのです』
 蒼白で苦しそうな表情を笑顔で隠し、女性は子どもに懇願してきた。これに子どもは困惑した。そのようなことを今までに言われたことなどない。それでも──。
『かあ、さま……』
 子どもは照れるように頬を染め、女性の思いに応えるかのように声を発した。
『ありがとう、ウォーリア。くれぐれもカオスを出してはいけません……』
出せば、あなたの生命すら危ういでしょう……。苦しいながらもにこりと微笑む女性の美しい笑みを、子どもは忘れることができなかった。このあとすぐ息を引き取った女性に、子どもはポロポロと涙を流す。
 この場にガーランドが現れるまでに、子どもはひとりで女性を埋葬した。受け取った光を失いかけたクリスタルは、隠すように懐へ忍ばせていた。そのために、ガーランドに見つかることはなかった──。

「まだ……つらいか?」
 頭の中で当時のことを思い起こしていた青年は、不意にかけられた声にこくりと力なく頭を動かす。そのせいでひたいの布はずれてしまったが、それはガーランドがすぐに戻してくれた。青年は答えた。
『苦しい。風呂に入る代償が、これなら……。私はもう、風呂に浸かりたくはない』
「……」
 ガーランドはどう説明したものか思いあぐねた。風呂に浸かって勝手にのぼせただけで、かなり大げさなのだが。初めての体験で苦しい思いをしてしまっているなら、それも仕方ないことなのかもしれない。
「ならば、これからは儂とともに湯に浸かるか」
「おまえと? 私は別に風呂など必要しな」
「長湯するほど気持ちよかったのであろう? それなら遠慮は要らぬ。ゆっくり湯に浸かり、心身の疲れを癒すがよい」
『……』
 美しい柳眉を顰め、青年は黙り込んだ。ガーランドに指摘されたことは、完全に図星だった。目には映らないものと会話していたことも、のぼせた要因のひとつとしてあるのだが。
『おまえは……浴室での会話を聞いていたのか?』
「なにか話をしておったのか?」
『……聞いていなかったなら、それでいい』
 ガーランドの言葉に、青年は安堵した。周囲の声が急になくなったことに、もっと早く察知できなかったことを悔やんでいた。
 青年に懐き、許可なく勝手についてきた妖精たちは、魔力の高い人間の目には映る。魔法を駆使するガーランドならば、目に見えている可能性があった。そうなると、妖精の声もガーランドの耳に届いてしまう。
 妖精との会話は、ガーランドに聞かれると都合の悪いものでしかなかった。幸いにも聞かれていなかったことに、青年は安堵から小さな吐息を洩らしていた。
「布が温くなったな」
『……ありがとう』
 ガーランドは青年のひたいにあてていた布を、冷たいものと交換してやった。気持ちよさげに綻ばせて礼を伝える青年に、ガーランドの心臓は一気に高鳴った。
 あのときの子どもが実は男性であったこと。吸血鬼であったこと。いろいろと問題があることに、ガーランドは諦めの心を持っていた。だが、十五年に及ぶ長い片想いは潰えそうになかった。
 ガーランドの心臓は、とくとくとやかましい躍動をはじめだした。この心に正直に、そしてこの想いは実らずとも大切に育てよう。そう、ガーランドは考えたときだった。
 くうぅ〜♪
 なんとも可愛い音が青年から発せられた。なんの音がわからず、ガーランドは目を丸くして青年を見つめてしまった。
 青年の青白い顔はみるみる紅潮していく。ばっと掛布を頭まで被り、青年は全身を覆い隠してしまった。せっかくあてなおした布は、枕の上にちょこんと取り残されている。
 ぷっ、嗤うところではないのだが、ガーランドは小さく噴いていた。この青年は本当に吸血鬼なのか? そのような思いすらしてくる。あまりにも人間に近くて、親近感が湧いてきた。
「……腹が減っておるのか?」
『……あれしきでは、充たされない』
「そうか」
 あの程度の血量では足りないらしい。青年がどの程度の血液を必要とするかはガーランドも知らない。だが、もしかしたら、青年にも代替可能な食べものだってあるかもしれない。さっと脳内で結論を出し、ガーランドは掛布で隠れた青年にのしかかるように組み敷いた。
『……なっ⁉』
「訊いておいてよいか? お前は人間の食べ物で、摂取可能なものはあるのか?」
『……』
「答えられぬか?」
 青年を組み敷き、ガーランドの中で葛藤が走っていた。対価は要らないと突っぱねたものの、青年の潤んだアイスブルーに見つめられ、心は大きく揺さぶられていた。
『……私にはわからない。今の人間がなにを食べているのか。私でも食べられるものがあるのか』
 青年は熱い吐息をふぅと洩らしている。まだ体温が下がっていないのか、頬も上気していた。食欲はあるようなので、とりあえずひととおり作ってやるつもりで、ガーランドは青年から身を離した。
『ガーランド?』
「なにか作ってきてやろう。お前の舌に合うものが見つかればよいがな……」
まだ寝ておれ。それだけを言い、ガーランドは青年のひたいから落ちた布を冷たいものと交換して、寝所を出ていった。

『……』
 青年は嘆息し、冷たい布にそっと手をあてた。ゆっくり、瞼を閉じていく。
……人間の世界も厄介だな。
 声に出すことはせず、心の中だけでひっそりと感じていた。長く独りだった青年は、相手側からこうして歩み寄られることに慣れていなかった。懐いてきた異種族のものは別だが。
 それより、青年の発熱は長湯によるものだけではなかった。ガーランドの持つ光の力が、青年の闇の眷属の力に影響を与えている。闇のなかでしか生きられない青年には、ガーランドの傍にいるだけで途端に弱くなってしまう。
……このままでは、まずいな。
 青年はごそりと身を動かした。だが、着せられているものが、先まで自身で身につけていたものと全く違うものだと、ここで気づいた。
『──……っ、』
……クリスタルが、ない──。
確かに携えていたはずなのに。青年は思い返していた。鎧および衣類や身につけていたものを、どこに置いたかを。
……風呂か。
 ちっ、青年は小さく舌打ちした。動きたいが、今はどうも身が拒んでいる。
 だが、ガーランドの強い力に打ち勝つことができなければ、ここに来た意味がなくなる。長い時を使い、ガーランドを探した。あの苦労がすべて無駄になってしまう。青年は心の中で大きく叫んでいた。もしかしたら来てくれるかもしれない、目に映らないものたちの名前を。
『────様っ』
 どうやら青年の願いは通じたようだった。室内にさらりとした緩やかな風が発生する。青年の髪がひと房ふわりと舞った。
『ウォーリア様、どうされたのです?』
『……ガーランドは、どうしている?』
 緩やかに舞う風に向け、青年は小声で話しかけた。ふわっと青年の艶のない髪が動くと、柔らかい声が聞こえてくる。
『あの大男なら、なにか料理をしていましたが』
『そうか、では──』
 青年は妖精に頼み事をひとつして、瞼をもう一度閉じた。この部屋は青年にとって明るすぎる。ランタンの光源を落とすことなど、さすがに非力な妖精に頼むわけにもいかない。
 とにかく、青年はクリスタルを求めていた。あれがあれば、どうにか……。青年の思いを知る妖精は、緩やかな風を残してこの部屋を出ていった。室内はふわふわと風が心地よく動いている。
 ガチャ
「具合はどうだ?」
『っ、⁉……悪い』
 気配を感じさせることなく部屋の扉を開けたガーランドに、青年は驚きはしたが、それでも素っ気なく返事はできた。まさか、こんなに早くガーランドが戻ってくるとは。青年としても、これは完全に計算外だった。
 もし、妖精がクリスタルを持って、ここに戻ってきてしまったら……? 仮に妖精の姿は見えていなくても、宙に浮くクリスタルなどを見てしまえば、さすがにガーランドだって驚くだろう。青年はなんとかガーランドを部屋から追いだそうと算段を立てた。
 だが……。ガーランドはそんな青年の思惑に気づくこともなく、両手に料理の載った皿をテーブルに置いていった。
『……なんだ、これは?』
「なにって? 食事だが?」
『……』
 青年は眉を顰めていた。当然だった。さほど大きくもないテーブルには所狭しと料理が並べられていく。青年が眼を丸くしているあいだにも、ガーランドは次々に持ってきていた。
 しかし、どれを見ても人間の食するものばかりで、青年が口に入れられそうなものはない。しかも量が多い。これほどの量を、誰が食べるというのか。青年は訊くこともできず、目の前に並べられていく料理の数々を、無言で見ているだけだった。
「口に合いそうにないか?」
『悪いが……』
 青年は申し訳なさそうに、断りを入れようとした。食べられる、食べられないという問題以前のものだった。けれど、その直後のことだった。
 くう〜っ♪ くるるるるるるるるぅ♪
 間の抜けた音が室内に響く。一瞬、なにが起きたのか……ガーランドですら、判断はできなかった。
「……まさか」
『……うるさい、私は腹が減っているとあれほど』
 くっ、ガーランドは口元に手をあてて小さく嗤った。大声を出してしまえば、青年は気まずさと羞恥からいたたまれなくなるであろう。ガーランドなりの配慮のつもりだった。
『悪いが、私にヒトのものは』
「好き嫌い言わずに食え。なんなら……儂が口移しをしてやろうか?」
『なっ⁉』
 かああぁっ、青年の頬がみるみる染まる。思いがけない青年の感情変化に、ガーランドのほうも驚いていた。しばらくふたりは無言で、目を離せないまま見つめ合っていた。だが。
『……そうまで言うなら食べてやろう』
 まだ躰はふらふらしているが、青年は身を起こした。寝台を下り、おぼつかない脚取りでゆっくりとテーブルに向かう。妖精がここにはまだ戻ってこないように、何度も心の中で語りかけた。
「アレルギーなどはあるのか?」
『っ、⁉ ない……はずだが』
 心に集中をしていたせいか、ガーランドに話しかけられてもすぐには対処できなかった。しかし、咄嗟に答えることはできた。
 だが、青年は答えたあとに、心の中で『アレルギー?』と思ってしまったのだが。疑問に思っても、ガーランドに聞き返すことはしなかった。人間の食べ物が合わない確率のほうが高いからだった。
 くらりと目眩のようなものを起こし、青年は目の前が一瞬暗くなった。次に星が舞うように、目の前がチカチカと光りだす。ふらついた青年の脚は、膝から崩れようとした。
「まだふらついておるな」
『ッ、すまな……』
 青年の崩れかけた身は、ガーランドに支えられていた。これに青年は驚愕した。ガーランドの瞬時の行動にしては速すぎる。
 ガーランドが恵まれた巨躯を持っているのは、見てわかることだった。その巨躯がこれほど素早く動けるものなのか。これでは、あの白銀の重鎧を装備していても、青年より素早く動けてしまうのではないか。青年が驚愕したのはここにあった。
 ぞくり、青年の背に冷たいものが流れていく。のぼせていた躰は急速に冷やさせていくようだった。同時に、目眩も躰のふらつきもなくなった。傍にガーランドがいる。これは、青年にとって脅威でしかない。
 ガーランドの支えを手だけで断り、かたりと音を立てて青年は着席した。ガーランドは気にすることなく、青年の向かい側に座る。

 もう朝日が昇ろうとする早朝に、ふたり揃って遅い夕食を摂ることになった。手を合わせ、この地に豊穣をもたらす神に祈りを捧げる。ガーランドが自然に行なうものだからか、同じ習慣が青年にもあるのか。ふたりは黙って祈った。
「食うか。無理はするな」
『……無理をしないと、口移しをされてしまうのだろう』
 意を決して、青年は一番手元にあったニジマスの包み焼きをほぐし、ぱくりとほぐし身を口に入れた。香草をふんだんに使用され、魚特有の臭みとクセは取り除かれている。ニジマスは元々クセの少ない部類の魚ではあるが。
 もぐもぐ……、青年が咀嚼していくのを、ガーランドはじっと窺っていた。口に合わない以前に、もし体質に合わなければ、それ以上に問題が生じるからだった。ごくん。青年は嚥下した。
『……初めて食べた』
 青年の瞳の色は少し輝いている。青年のその様子から、少なくとも否定的ではないとガーランドは察した。眼を輝かせてニジマスを食べる青年に、ガーランドはじゃが芋の入ったスープを薦めた。
「これも食ってみろ」
『……これは?』
「じゃが芋と玉ねぎ、ベーコンしか入っておらぬ」
『……』
 青年はスープをひと匙すくい、おそるおそる口内に入れた。すると、青年の動きはぴたりと止まった。
 青年の匙を持つ手がカタカタと震えている。ガーランドはぴくりと眉を動かした。なにか口に合わないものが入っていたのか、不安が生じる。
『……人間はこのような美味しいものを、いつも食べているのか?』
「…………。お前は今までなにを食ってきた?」
 ガーランドは呆れていた。しかし、同時に嬉しさも込み上げてくる。気難しそうに見受けられるこの青年が、率直に感想を述べて、ぱくぱくと口を動かしていく。
 青年は相当腹が減っていたのか、作った食事は大量であったはずなのに、すぐになくなっていった。
「満足したか?」
『確かに食事は美味しかった。だが、これでは……』
「そうか」
 ふー、ガーランドは嘆息した。青年の言いたいことがわかってしまった。腹は満たせても血を飲まない限り、本当の意味で充たされることはないのだと。
 ふと、ここでガーランドに疑問が生じた。この青年に名を聞いたか、と。幼き時分に出逢ったころ、子どもは母を喪い涙していた。あの時はここまで想うなど考えもしなかったので、名を聞くこともなかった。
「お前の名を、聞いてもよいか?」
『……私に名はない』
「なに?」
 だが、青年からは予想外の言葉が返ってきた。これにはガーランドも驚いた。名がないのなら、母からどう呼ばれていたのか。そのことを問うと、青年は何度も頭を振ってきた。
『名はない。お前の好きに……呼べばいい』
 訊いてはいけないことだったのか、青年は憂いた表情を浮かべている。ガーランドはその表情に見覚えがあった。あれは、確か──。

『何故に、このような場所に……?』
 砦の近くで陣を張る際に、ガーランドは不思議な声に呼ばれていた。その声を探るために藪をかき分けて周辺を探っていたときに、ひとりの女性を発見した。
 人の気配のない場所に不自然にいる女性に、ガーランドは訝しんだ。しかし女性は倒れ込むように、この場に蹲っている。具合でも悪くしているのか。思ったが、ガーランドの今の状況を考えると保護は難しい。それでもどうにかしたくて、ガーランドは女性に近づいた。
『っ、』
 驚愕と同時に、ガーランドは判断した。自身を呼んだのは、この女性だと。そして、この女性はもう長くはないと──。
『──ンド、ガーランド』
『なにか?』
 どうしてこの女性がガーランドの名を知っているのか……。あえてガーランドは訊くことをしなかった。命の残り少ない者に対して訊くことは無粋に感じられたし、女性の言い残したいことを優先して言わせてあげたかった。
『あの子を……ウォーリアをお願いします』
 ガーランドは命の尽きようとする女性を抱き起こした。女性はガーランドを見つめてから、視線を虚ろなものに変えている。もう、視力は残されていないのかもしれない。ガーランドは察した。
『あなたならば、あの子を任せられます。私には力が残されていません。あなたに託したいのですが、あの子にも──ごふっ』
『、っ⁉』
 女性は吐血した。外傷はないので、病気の可能性も感じられた。本来なら止めるべきなのだろうが、ガーランドは黙っている。この女性の話すことを聞いておかないと後悔する。なぜか、そう感じていた。
 女性は口元を押さえて続けていく。口元を押さえていない片方の腕を動かし、ガーランドにその細い指先を向けた。
『いいですか、ガーランド。あなたを光のちか』
『ガーランド様ッ!』
 女性の力ない声は、ガーランドを探しに来たらしい部下の騎士によって遮られた。ちっ、ガーランドは舌打ちし、部下を睨みつけた。大切なことをこの女性は話そうとしているのに、いったいなんの用があってのことか。
『ガーランド様。あちらにも魔物が暴れております。すぐにいらしてください』
我々だけでは……。必死に訴えてくる騎士を無視はできない。ガーランドは女性をこの場から連れだそうとした。保護が難しいとはいえ、さすがに残してはいけない。抱きかかえようとすると、それを断ってきたのはこの女性のほうだった。
『私に構わず……。それより、これを』
『……』
『あなたの、力を……抑える、もの……ごふっ、』
 女性から一冊の書を手渡され、ガーランドは躊躇した。言われたことが理解できず、思わず女性と手にした書を何度も見てしまう。
『ガーランド様っ!』
『すまない。あとから、救護の者を連れてくるゆえに』
 このあと、少しだけ女性と話はできたものの、部下の騎士が焦燥していることから、早めに戻ってやらねばならない。ガーランドは決断し、女性を残してこの地をあとにした。戦場となるかもしれない場所に連れていくより、この場に残すほうが生存率は上がる。だが、あとから必ず戻り、女性をこの手で保護するつもりであった。
 しかし、次にガーランドがこの場を訪れたときは女性の姿はなく、代わりに小さな子どもが泣いていた。あの時の子どもの涙する眼と表情は、今の青年と変わらず同じもの──。

「──ウォーリア、か」
『っ⁉ なぜ、それを……』
「いや、なんとなく……な」
やはり、そうであったか。思い出の中の僅かな記憶が当たっていたことに、ガーランドは瞼を閉じた。あのときに場を離れた己を呪いたい気持ちである。
 あの時に女性がなにを伝えようとしたのか──。結局、わからず終いになっている。ガーランド自身が忘れていたために、今となっては知る者は誰もいない。目の前のこの青年が、あの時のガーランドと女性の会話を聞いていたとも思えない。聞いていたとしても、時が経ちすぎている。覚えている可能性はゼロに等しかった。
 青年の名──どう呼ばれていたのか──を思いだせたことだけが、現状としてのガーランドの収穫だった。だが、それで今は十分だった。ふたりで過ごすうえで名は重要であるし、呼ぶ名のあるほうが親密度もぐっと増す。
『私のことを、ウォーリアオブライト──そう呼ぶ者は少ない。だが……おまえが呼びたいのなら、それでもいい』
 青年としては、ガーランドからどう呼ばれようと構わなかった。それでも、ガーランドが知っていたことに、多少の驚愕はしていた。ガーランドがその名を知っている理由までは、青年も知らないのだが。
「茶を淹れよう。いろいろと教えてくれぬか。お前のことも含めて、な。それが儂の求めるお前への対価だ」
『私の教えられる範囲でよければ……』
 空になった皿を片づけ、ガーランドは茶の用意をはじめる。青年はというと、先の妖精の気配を探っていた。瞼を閉じ、集中する。
 ガーランドはそんな青年の様子を見て、心穏やかにしてくれている──この住まいと環境の変化に慣れようとしているのだと、勝手に考えていた。
 この日は長い時間、ふたりで話し合った。主な内容として、青年──ウォーリアのことについてだった。


【追い詰めていた白の魔物を取り逃した。
 コーネリアを含む近隣諸国は、さらなる注意を願う!】

 その報告が騎士団に入ったのは、夜では遅く、朝では早い時間帯となる。ガーランドと青年はまだ起きて、ちょっとした問答をしている時間だった。それは、すなわち──。
『私に……ここで、今から寝ろ、と?』
「先も寝ておっただろうが」
 はぁ、ガーランドは盛大な嘆息をした。独り身なのだから、寝台もひとつしかない。長椅子はあるが、客人である青年をそのような場所で寝かせることはできない。
 だが、ガーランドの主張に、青年は首を縦に振らなかった。夜は起きているのだから不要だと……何度も繰り返してくる。
 就寝するガーランドを残し、青年が出ていく心配もある。それを防止することも兼ねての同衾──一緒に寝るだけなのだが。何度説明しても、青年は理解してくれない。
 もちろん、青年にも言いたいことはある。どうしてこの男と枕を並べて寝なければならないのか。対価が絡まないのなら、ヒトと寝ることも、寝るつもりもない。
 互いの主張は平行線だった──。

「……」
……まだ寝ておる。
当然か。ガーランドは窓から射し込む朝日に目を細めていた。かなり遅い帰宅ののち、青年を風呂に入れた。青年は勝手にのぼせてしまったが、そこからの食事ときた。それからの悶着──。
 眠りに就いたのは明け方近くで、この時間にガーランド自身起きられたことが奇跡に近いかもしれない。ふぁ……、ガーランドは大きな欠伸をしてから躰を大きく伸ばした。コキコキと鳴る肩が年齢を物語る。くっ、ガーランドは苦笑していた。
「ほう、」
……寝顔はあどけないな。
 隣で眠る青年の表情を覗き込む。瞼が閉じられていると、表情に硬質な冷たさは微塵も感じられない。すぅすぅと規則正しい寝息をたてる青年を見ていると、とても吸血鬼とは思えなかった。確かに肌は美しい陶器のような白肌を持っている。
 するり、ガーランドは白磁のような頬に触れた。キメの細かい滑らかな肌は、ガーランドの大きな手のひらに吸いつくかのようにしっとりと水分を含んでいる。
「……む?」
……おかしい。
 さすがにガーランドも疑問を持った。どうして頬に水分がある? 汗かとガーランドは考えた。しかし、汗ではないことは明白だった。しっとりと湿っているのは、頬と閉じられた瞼の周りのみになる。
……泣いておったのか。
 ガーランドの寝台は大きい。ガーランドがふたり並んで寝ても余りあるくらいの大きさの寝台の半分を、青年に提供した。そうでないと、青年は長椅子どころか、床で眠ると言いだして聞かなかった。
 ガーランドは青年のことを教えてもらえるなら、それ以上の対価は必要としなかった。だが、青年は違った。対価を支払うと聞かない青年の誘惑に負けそうになりながらも、ガーランドは逸る心をどうにか抑えつけた。それからもう少しして、なんとか睡眠をとることができた。
 しかし、青年の泣く理由がわからない。空腹で眠りに就いた……というのも、ひとつの可能性として考えられた。というのも──。

『血液をいただく代わりだが、私の精はその者にとって強力な貧血防止薬と成り得る。私が血をもらったところでなにひとつ問題は発生しない。ただひとつ……』
その者が私の精を口にできるか……だが。なんてことのないように青年は言い放った。青年の対価は口先のものだけであろうと、ガーランドはどこか思っていた。しかし、現実とは……。青年はさらに続けた。
『光属性の者の血液は闇属性の我々にとって、媚薬的な効果をもたらす。一度飲めば離れられなくなり、肉体の感度が増していく。ついでに精の味に変化が生じ、光の者にとっては飲みやすくなる』
『……』
 もはや、どこから突っ込んでいいのか、皆目見当もつかない。なんだ、その双方に都合の良すぎる設定は? ガーランドは脳内で突っ込んでいた。余計な要素がありすぎるだろう。はぁ、ガーランドは何度目かわからない嘆息をしていた。
 だが、わからなくはなかった。食料を得るためとはいえ、適合者とやらに身を捧げなければならない。たとえ意図したものでなくとも、だ。もしかしたら嫌々身を繋げなければならないのかもしれない。媚薬効果だのなんだのは、そういった行為への救済措置なのかもしれない。
……そこまでしなければならぬのか。
 ほかの吸血鬼族のことは知らぬが、青年の一族はもしかしたら絶滅危惧種に相当するのでは? なんとなくガーランドは感じとっていた。
『……おまえは、私をどうしたい?』
 青年は急にしおらしくなった。見れば身をカタカタと震わせている。対価を支払うことに慣れておらぬのだろう。容易に想像はついた。
『……なにもせぬ。それより、儂は眠い』
お前は此処で寝ろ。寝台の半分を提供するように寝転がり、空いた場所を指さした。こういう夢のような現実は、さっさと眠りに就いて逃避したかった。
『明日も早い。さっさと寝るぞ』
 実際にガーランドは眠くなっていた。壮年に近づくにつれ、睡眠の重要性は理解している。可能な限りの睡眠時間を確保したいものだった。
『……私は、床でいい……』
『……』
 しおらしくなるのは構わない。だが、そこは違う。ガーランドはだんだん面倒になりつつあった。眠くて機嫌が悪くなってきたのも、理由のひとつとしてあった。
『いいから来ぬか』
『……ッ、』
 ガーランドは青年の腕を掴み、強引に引っ張った。抵抗する青年を胸の中に閉じ込めると、ガーランドは背をとんとんと一定の間隔で、優しく何度も叩きだした。
 初めは怯えて抗いを見せていた青年は、やがて大人しくガーランドのとんとんと叩かれるのを享受していった。ガーランドは青年の様子を窺いながら行っていたのだが、青年の瞼が重そうに動きだしているのを確認した。長い氷銀の睫毛は、ふるふると何度も小刻みに震えている。眠気に抗おうとしているのは一目瞭然で、ガーランドは畳みかけるように、青年を締めすぎないように強く抱きしめた。
『……温かいな』
 それだけを言うと、青年は瞼を完全に閉じた。それからすぐに、すぅすぅとガーランドの耳に入ってくる。
 青年が瞼を閉じてから寝息が規則的なものに変わっても、ガーランドはしばらくとんとんを繰り返していた──。

「……?」
 ふと、ここでガーランドは懸念を持つ。吸血鬼は陽の光を浴びれば灰になるのではなかったのか。窓から射し込む陽光は、直接青年の身に降り注いでいるわけではない。それでも、この部屋は朝の陽光で充満している。
 それで青年が起きることなく安眠しているのなら、陽光を浴びたところで灰にはならないのだろう。けれど心配は付きまとう。青年に詳細を聞くまでは、念のためにカーテンで窓からの陽光を遮ることにする。
 青年を起こさないように、ガーランドは寝台をそっと抜け出した。カーテンで光を遮断していくと、室内は薄暗くなった。しかし、今度は朝とは思えない暗さになったので、ガーランドはランタンに灯りを点す。
「ふむ」
 ここまでしても、青年に起きる様子は見受けられない。それならば、と。ガーランドは眠る青年を残して寝所を出た。青年が起きてきたときに腹の虫を鳴らさないように、少しでも食べられるものを用意しておいてやろうと……。

 ■■■

『いいですか、ウォーリア。ガーランドには……くれぐれも注意しなさい』
『ガーランド?』
 子どもはきょとんとしていた。どうして、ここでガーランドの名が出てくるのか。子どもが背中をさすっていると、女性は苦しそうな表情のなかに笑顔を含ませてきた。
『今はまだ……抑えられています。ですが、目覚めてしまえば……』
『コスモス、どういうことだ? それに、ガーランドが──?』
 空間が歪む。子どもは歪みだした空間のなかでも、しっかりと女性の姿を捉えていた。苦しいはずなのに女性はにこりと微笑んで、それから説明を続けてくれた。
『コーネリアの騎士団長を務めている男です。この男がすべての──』
 しかし、ここまでだった。歪んだ空間とともに、子どもの躰は大きく揺さぶられた──。

「──ぉい。おい、起きろ」
『……』
 不意に身を揺すられた青年は、ゆっくりと眠りから覚めていった。硬質なアイスブルーの瞳を細め、身を揺すってくる大男をじろりと睨みつける。
 青年は少しばかりの怒りを覚えていた。せっかくのコスモスとの思い出を、このようなことで妨害されたことに。そして、それを行使したのがガーランド当人であることに。
『……なぜ起こした?』
「朝だ。儂は王城へ行く。お前は此処に居れ」
『……』
 たったそれだけを伝えたいがために、わざわざ起こしたというのか。青年は不機嫌さを隠そうともせず、ガーランドをぎっと睨み続けていた。
「……なるほど。吸血鬼族所以の朝の機嫌の悪さか。日光を浴びて灰になるということはないのか?」
 見当違いなことを言いだしたガーランドに、青年はぴくりと柳眉を少しだけ動かした。しかし、夢の邪魔をされたなどと、説明しなければならないことではない。ぷいとそっぽを向き、それでも青年は律儀に答えた。
『……また違う種族だ。日光を浴びれば、確かに身体能力は弱まる。だが、灰になることも、浴びた箇所が火傷することもない。なるべく浴びないほうがいいのは確かだが』
 どうやら灰になるという心配は杞憂だったらしい。ガーランドは安堵した。これなら、窓にカーテンをかける必要はなくなるし、朝からランタンを点すこともなくなる。
「……?」
 安堵はしたものの、ここでガーランドはひとつの疑問を浮かべていた。この青年がまだ子どものころに、ガーランドは一度会っている。あのときは鬱蒼とした森のなかではあったが、陽の光は届いていた。それなのにあの童子にしろ、コスモスと呼ばれる女性にしろ、普通に振る舞っておらなかったか? ガーランドは首を傾げていた。
『……光属性の血液を摂取していれば、日光など恐れることはない』
「そういうことか」
 対価を支払ってまで、血液を欲しがる理由が理解できた。この青年は血液を食料としてではなく、日常生活を送る手段としてでも必要とするのか。これでは……断るわけにはいかない。ガーランドは小さく嘆息した。
 このコーネリアで過ごすとなれば、日光を避けることなど到底不可に近い。室内にこもろうにも、窓から暖かい陽光は嫌でも射し込んでくる。
 ガーランドが先に行ったように、カーテンで遮断しても、次は室内が暗くなる。これはランタンで解決可能だが、それでも……薄暗いことには変わりがな……い。ここで、ガーランドはもうひとつの疑問が浮かんだ。昨夜から、この青年はガーランドを〝光属性〟と、ずっと告げてくる。
 ガーランドは四大元素の精霊を使役し、魔法を使用することができる。しかし、その中に光は含まれていない。光の精霊と過去何度も契約を交わそうとした。だが、すべてことごとく拒否され、以来光の精霊との契約は諦めている。
 そのような経緯をもったガーランドに、どうして光の属性など持てようか。ガーランドは口を開いていた。
「儂が光属性とはどういうことだ……?」
『…………後天性だとしても、属性が光ゆえに精霊と契約はできない。おまえが光の精霊を連れていないから、すぐにわかる』
「どういうことだ?」
後天性? 精霊を連れていない? ガーランドの頭にいくつかの疑問符が飛び交う。しかし、青年はこれ以上答えようとはしなかった。ふいと顔を背けたままでいる。
……機嫌を損ねておるのか。
 必要なだけの血液を摂取できていないのなら、それも仕方のないことではある。空腹で不機嫌になる人間を、ガーランドも見てきたことは何度もある。この青年も同じなのだろう。深い溜息をつくと、ガーランドは青年に覆い被さった。
『なっ……?』
 まだ身を起こしていなかった青年は、びくりと怯えの表情を浮かべる。突然のしかかられ、腕を両まとめにして頭上で押さえつけられた。なにをされるのか理解できず、ぶるりと身を震わせる。
『んぅっ……ッ』
 青年は驚愕に眼を見開いた。ガーランドの黄金色の双眸は鋭利な色をまとわせている。そのような瞳で射貫くように見つめられ、青年は唇を塞がれた。くぐもった声が青年から発せられる。
「口づけのときは瞼を閉じよ」
「口づ、け……?」
 ガーランドはただ血液を飲ませるつもりはなかった。青年があまりにも〝対価〟とうるさいものだから、少しはいただくつもりでいる。すなわち、血液を与えると同時に、青年の口内を好きに蹂躙してやろうと……。
 ただ口移しするだけでは情緒に欠ける。そのために「口づけ」と言ったのだが。この言葉に、青年の頬はかああぁっと一瞬で朱く染っていった。これにはガーランドも驚愕した。
「……」
 ガーランドも二の句が出せずに目を見張った。これまで機嫌が悪く無表情だった青年が、恥じるように瞼を伏せて顔を逸らしている。頭上で拘束していた両まとめの腕を離してやると、青年は唇に指を這わせていった。
『……初めてだ、そのように言われたのは』
「……」
 伏せた瞼がまばたきをするだけで、長い氷銀色の睫毛もふるりと震えている。嬉しそうに囁く青年の上で、ガーランドは静かな怒りの炎を燃やしていた。
 青年が対価を得るために何処の誰と身を繋ごうとも、それは生きるうえで必要なのだから、ガーランドも言及するつもりはない。だが、今は別だった。青年の目の前に、適合するというガーランド本人がいる。それでも、これまでのことをのうのうとのたまおうとする青年に、嫉妬という名の炎が渦巻いた。
「お前は……儂のものだ」
『っ、』
 驚いた表情もまた愛らしいと……考えてしまうほどには、ガーランドはこの青年の虜になっていたのかもしれない。ガーランドは青年の顎に指をかけた。
 くいっと上を向かせた際に見せた青年のあどけない表情は、ガーランドとしても忘れられないものとなった。
「今後、誰かと身を繋ごうなどと考えるでない」
『……んっ、』
 唇を重ね合わせると、青年の躰が大きく震えていたのがガーランドにも感じられた。それでも中断させることはない。青年が先に指を這わせたように、今度はガーランドが重ね合わせた唇の先でゆっくりと舌を這わせていく。
「ふ……ンんっ」
 歯列や歯茎まで味わうように舌を這わせていくと、驚愕に眼を見開かせていた青年は大人しく瞼を閉じた。ガーランドの強引な行為を甘受するつもりでいるのか、食事を与えてくれるものだと信じているのか……。これを青年の了諾と捉え、ガーランドは行為を続行させる。歯列にゆっくりと舌を這わせると、青年はおずおずと唇を広げてきた。
「ふぁ……ァン」
 舌を青年の口内に入れ込ませると、奥でちぢこまるようにしている舌と絡ませ合う。絡んでくるガーランドの舌を感じると、青年の舌はおずおずと動きだした。これにはガーランドも小さく口角を歪ませる。
 舌を絡ませ合い、青年の口内をじっくりと味わってから、ガーランドはぷつりと舌を少し噛み切った。流れていく血液を青年に与えるように舌を動かしていく。
『んんッ、あぅ……っ、』
 ガーランドの血液を確認できたのか、青年の舌の動きは活発になった。より求めようと、自らでガーランドの舌を舐めまわしてくる。少しくすぐったいが、青年の積極的な舌の動きをガーランドも愉しんだ。青年は顔の角度を何度も変え、鼻先をも押しつけてガーランドを求めてくる。

『ンっ、……ふゥン』
 どのくらい血液を与え続けたのか、ガーランドもわからなくなっていた。さほど時としては経過していないはずだが、舌からの出血はどうやら自然に止まってしまっている。否、青年の唾液による治癒効果なのかもしれない。
 青年の口内を好きに蹂躙するつもりだったが、逆にガーランドの舌が好きに貪られた。この事実にガーランドも苦笑する。
 唇を離すと、敷布の上で満足そうにとろりと瞳を蕩けさせた青年の姿があった。その瞳の色は、鳩の血の深紅──。
「──……っ‼️」
 虚ろな紅の瞳を動かし、青年はガーランドを見つめてきた。唇は重ね合わせたことで、熟したさくらんぼのような愛らしい赤に染まっている。はぁと艶めかしい吐息を零す青年に、ここまで蠱惑的な表情ができるものなのか。と、ガーランドは胸をうるさいくらい高鳴らせて刮目していた。
「ぐぅ……っ、」
 悲しいがガーランドにも性欲というものが存在する。想いを寄せていた者の煽情的な姿に、ガーランドとしても最後まで行いたい衝動に駆られた。が、ガーランドは気づいた。青年は表情だけを見れば、誘っているかのように色っぽく艶めいたものになっている。しかし、躰は別だった。カタカタと微細に震えている。
 青年の震える姿に、ガーランドも心を鎮めた。このまま対価を得たとしても、互いに──主にガーランドが後悔をすることになる。青年の心が伴っていない状態で、無理に身を繋げようとは思わなかった。
「怯えさせてしまったか……?」
『……』
 ふるふる……青年は何度も頭を左右に振った。そのせいで敷布に広がった氷雪色の髪は、ランタンの光源を受けて複雑に輝いている。これにはガーランドもドキッともう一度大きく胸を鳴らす。
「……」
 青年の煽情的な姿をじっと見ていたいが、そろそろガーランドもこの家を出る時間になる。もったいなく感じるが、ガーランドは青年から退くと、寝台をすっと下りた。
「この家の中のものは、自由に使え。一応朝食と昼食も作っておいた。口に合うようなら食べておけ」
 ガーランドはそれだけを伝えると寝所を出た。隣の暖炉のある部屋に入り、鎧を身につけていく。最後に篭手を嵌め、出発の準備を整えていった。
 すべての装備が整うころ、青年は遅れて暖炉のある部屋に入ってきた。瞳の色は元のアイスブルーに、表情はいつもの氷のような無表情に戻っている。やはりもう少し見ておくべきだったと、ついガーランドは考えてしまった。
 名残惜しげに青年を見ていたが、ガーランドは青年のまだ紅い唇を見て思い至ったことがあった。
「そういえば、お前は元々どのあたりに住んでおる?」
『っ、それは──』
 これは知っておかねばならないことだった。この青年がまだ童子だったときも、母親ともども何処から来たのか結局知らないままでいる。
 尋ねてみたところで、青年は戸惑うような表情を見せてくるだけだった。何度か問うと、しつこさに諦めたのか、青年はようやく口を開いた。
『……何処から来たのか、私にも記憶がない』
「……」
 あまりにも嘘くさい返事に、ガーランドは訝しんだ。が、これ以上はゆっくりできない。とにかく先に王城へ行かなければならなかった。青年に血液を与えているあいだに、時間は刻々と過ぎていたようだった。
「まあよい。詳しい話は帰宅してからにしよう。火元と誰が訪ねてきても出ぬように」
 青年に簡潔な説明をして、ガーランドは家を出た。青年をひとりだけで残すことに、多少の不安を感じながら。
 出かけていくガーランドの背中を見送った青年は、ゆっくりと瞼を閉じた。心配されすぎていることに、口角を少し上げてふっと小さく微笑う。
『ようやく……行った、か』
 ガーランドの気配が周辺から完全になくなると、青年は長い睫毛を震わせて閉じていた瞼を開いていく。薄く微笑う青年の瞳は紅く、唇は完熟したさくらんぼのような艷めくものだった──。