第一幕 運命の輪廻 - 5/5

                2022.12/05

第五章 雪の日

 空からちらちらと白いものが降ってくる。青年は最初、これがなにかわからなかった。雨ではないことは見ればわかることだが、自然現象に触れてくることの少なかった青年は、それがなにかを知ることなくずっと空を眺めていた。
「……綺麗だな」
 頬に落ちた白いものは冷たく、青年は降り落ちてくるものを手のひらで受け取った。白いものが触れたところが冷たく、そしてそれはじきに溶けていった。
「氷……ではないな。……?」
 自然現象の不思議さに首を傾げていると、通りがかった町の人が教えてくれた。
「お兄さん、雪を知らないのかい? このあたりは冬になると降るんだよ」
「雪……? 冬……?」
 聞いたことのない単語だった。けれどこの世界を旅していたときに、氷の山にも入ったことはある。そのときの凍えるような冷たさが季節として訪れるのだとしたら……、青年は考えた。
「訊いてもいいだろうか。この雪というのは、景色を変えてしまうほど降り積もるものなのだろうか」
「そうだねぇ。冬の寒さが本格的なものになれば、積もることもあるよ。雪かきが必要になるほどまでは、滅多に降らないけどねえ」
「雪かき……?」
 そして青年は教えてもらった。地域によってはかなり雪が積もる場所もあると。そういった地域は屋根に積もった雪を下ろさないと、雪の重みで屋根や家そのものが倒壊してしまうと。
「それほどのものなのか?」
「……まあ。コーネリアでそこまで降ることって聞かないから、心配はしなくてもいいと思うけどね」
 はははと笑って去っていった町の人の背中を眺め、青年は不安をひとつ抱えてしまった。青年の住む家──かなり朽ちたボロボロの家は、屋根の修繕を終えていない。防水布をかけただけの粗末なものだから、雪が少しでも積もるようなことがあれば、それだけで布が重みに耐えきれずに落ちてきてしまうだろう。その前に対処しなければ……。買い物途中だった青年は、それすらも忘れて駆けるように家へと戻っていった。

 とはいえ、青年に屋根の修繕ができるはずもない。かといって、時おり訪ねてきてくれるガーランドに頼むわけにもいかない。とりあえず、屋根に木の板を何枚も並べて釘打ちし、その上から防水布で押さえつけるだけに留めておいた。
 このコーネリアに積もるほどの雪は積もらないと聞いているし、もし本格的な修理が必要ならば、早いうちにガーランドに方法を教えてもらおうと青年は考えた。
 聞くだけにしておかないと、ガーランドなら「儂がしてやろう」と、屋根まで上りかねない。はっきり言って、ガーランドの体重に屋根が保つとは思えなかった。そのために青年はこれまでにガーランドから屋根のことで言われてきても、ずっと無視して耐えてきたのに。
 積もりそうなほど雪が降るようであれば、青年自身で対処すればいい。不安は残るが、当面の対処ができたことに青年は満足していた。
「手が……それに、足も」
 しかし、それは思いあがりであったと、青年はすぐに気づくことになる。
 雪の大変さを侮り、青年は手足の指先が霜焼けになってしまった。手足のむず痒さを感じた青年は、修繕作業を中断して家に入った。ぬくぬくとした室内は、手足のむず痒さをさらにひどくさせてくれる。青年はどうしたものかと思いあぐねた。
 コンコン
「儂だ。……居るか? って、どうしたっ⁉」
 青年の困ったような表情と真っ赤になった手を見るなり、ガーランドは慌てて室内に飛び込んだ。青年をテーブルの席に座らせ、ガーランド自身はそこに膝をつけた。青年の手を、そして靴を脱がせて足先までじっくりと見ていく。
「霜焼けになっておるではないかッ。あまりひどくなると凍傷にもなるゆえに、雪とこの寒さを侮るな!」
 結局、青年はこうしてガーランドからお叱りと治療を受けることとなった。たまたまこの日にガーランドが訪ねてきたことは、青年にとって幸運だったのか、それとも間の悪い不幸であったのか……。
「まったく。おぬしは……なにもかもを独りでやろうとするでない」
「……」
 青年は言い返すことができなかった。ガーランドに頼りなくないからといって、結果がこうなってしまうのなら、最初から頼るべきであった。
 ガーランドはぶつくさと小声で説教をしながらも、青年の手足に薬を塗布し包帯まで巻いてくれている。青年が考えていたものより、その霜焼けという症状は重いようだった。
 だが、これでは水浴びができないのではないかとも思え、青年はガーランドに問いかけようとした。しかし、そのガーランドは兜を装着したままで、青年の足先をずっと見ている。
「ガーランド?」
「……む、すまぬ。おぬしの脚に見蕩れてしまった」
「〜〜っ、」
 なんでもないことのようにさらっと言われ、青年のほうが言葉に窮した。レギンスの裾を膝まで折り返した普通のふくらはぎや足首そして足先に、見蕩れる要素なんてどこにあるのか。青年が唇をはくはくとさせていると、ガーランドは顔を上げて告げてきた。
「しなやかで美しい。だが、この脚を他者に見せるでない」
「……」
 元々青年は装備をしっかりとしているので、肌そのものを人に見せることが少ない。まるで誰にでも見せているような言い方をされ、青年はむっと表情を歪めた。ガーランドはそんな青年に気づいたのか、すっくと立ち上がるとくしゃりと赤い髪を撫でてきた。
「初めての経験ならば、無茶をするのもわかるからな。言いすぎたこと、謝ろう」
 髪を撫でるついでに、ガーランドは青年の頬を掠めるように触れていった。そして、兜の中でぴくりと眉を動かす。青年の体温がかなり高い。発熱しているのは明白だった。
「……儂はもう行く。部屋を暖かくして眠るがよい」
 青年を席に座らせたまま、ガーランドはさっと家を出ていった。青年はきょとんとしていたが、これには理由があった。ガーランドがいると青年はゆっくりできないであろうことと、外に放置されている壺に水でも汲んで入れておいてやろうと考えてのことだった。
「それにしても……」
 青年のきょとんとした顔は、ガーランドの知るものであった。どこで見たのか……ガーランドは考えていたが、それはすぐにやめてしまった。青年はまだ発熱していることに気づいていない。それとも、発熱をしていても平気な顔をして普通に動けるのか。可能性としては両方だが、青年の家から湖までは少し歩かねばならない。発熱した状態で水を汲みに行くのは難しいと考え、そのためにガーランドは動いている。
 飲料としても、躰を拭くのにも、加湿にも水は必要になる。多く汲んでいたところで、季節的に傷むこともない。ガーランドは何往復かするつもりで、湖と青年の家を行ったり来たりしていた。

「このくらいでよいか」
 外の壺に水が溢れるくらいまで入れ、ガーランドはこのまま帰ろうかと思った。しかし、青年の様子が気にかかり、窓から室内をそっと覗いてみた。青年が寝ているにしろ起きているにしろ、確認だけしたら場を離れるつもりであった。だが、それもできなくなってしまった。ガーランドはすぐに扉を開け、室内に入っていった。
「しっかりせぬかっ!」
 青年はテーブルから少し離れたところで倒れている。青年の呼吸は荒く、発熱が本格的なものとなったのが容易に判断できた。
 ガーランドは青年を簡素な寝台に寝かせ、それから装備していた白銀の鎧一式を外していった。青年の看病に鎧は邪魔となる。すぐに帰らず、水を汲みに行っていてよかったと……思わず自画自賛してしまうほど、ガーランドは今の状況に少し呆れていた。青年の住むこの家には、本当になにもなかったからだった。
「ふむ……」
 青年とそれなりに仲良くなって、家を修繕するまでにはなっているが、実際のところガーランドはこの家の内情に詳しくはない。どこに、なにが、収納されているかも知らないし、だからといって勝手に探るわけにもいかない。薬が欲しいところだが、コーネリアまで取りに戻るには青年を独りにすることになる。それはそれで不安だった。
「手持ちはポーションしかないが……」
 なにもしないよりいいだろうと思い、ガーランドは青年の身を起こしてポーションを飲ませようとした。しかし、青年はポーションを飲もうとはしない。潤んだ瞳をガーランドに向け、力なく頭を左右に振るだけだった。
 飲めないのか、飲みたくないのか……の判断はこの際無視し、ガーランドはポーションの蓋を歯で噛んで強引に開けた。ぷッと蓋をその辺に吐き捨て、ガーランドはポーションを口内に含む。青年の顎を親指で押して唇を少し開かせると、ガーランドはゆっくりと唇を重ね合わせていった。
「んっ、……んぅっ」
 これはガーランドが初めてこの家に来たときに、青年が施した処置と全く同じものであった。ただ、今回はガーランドが行っている。飲みにくそうにしてはいるが、青年はガーランドの口移しでポーションを飲んでくれている。このことにガーランドは安堵していた。少なくとも飲み込むことができるのなら、体力的に心配することはない。
 青年がすべて飲めたことを確認し、ガーランドは唇を離した。青年の唇は艶やかに色づいており、ガーランドは生唾を飲み込んだ。青年とは思えない色香と艶めかしさに、ガーランド自身が魅了されそうになっていた。
「っ、なにを考えておるか。儂は……」
 青年を寝台に寝かせ、ガーランドは顔に手を当てて瞼を閉じた。それでもガーランドの瞼の裏に浮かんで見えるのは、青年の艶かしい唇と潤んだ煽情的な瞳であった。それに、唇が触れ合ったときの感触まで思いだされ、ガーランドははぁと溜息をつく。
 これまで独り身を貫いてきたガーランドにとって、青年の嬌態とも捉えられるこの仕草は、完全に目の毒だった。女性に対しても抱くことのなかった劣情が、この青年に対してむくむくと膨らんできそうになる。否、それだけは避けたかった。
 せっかく青年といい関係を築けているのに、壊す原因をガーランドが作ってしまえばどうなるか……。考えるまでもない。この感情は抑え込むべきだった。
「……」
 気持ちを切り替えるためにも、青年が起きたときになにか食べられるものを作っておこうと、ガーランドはこの場を離れた。暖炉は室内に設置されており、湯を沸かすのには適している。そのため、暖炉でスープを作ることにした。
 鍋に水を張り、適当に切った具材を投入して塩で簡単に味付けしたものを用意する。青年がすぐに食べられるとは思えなかったので、限りなく薄味に、具材も煮溶けるくらいくたくたにしておいた。これなら流動食としても使うことができる。
「今のうちに……しておくか」
 コトコトとスープを暖炉で煮込むあいだに、ガーランドは青年の服を替えておこうと思い立った。それから暖炉の火を調整して、この家を立ち去るつもりでいる。青年は服を数枚しか所持しておらず、似たようなものを複数枚揃えていた。おかげでガーランドも迷うことなく、青年の着替えを行っていく。
「では、儂は行く。しっかり眠るのだぞ」
 素早く鎧を装備し、家を出る準備を完全に済ませる。
 暖炉の火は小さいものとなっていたので、数本の薪を投入しておく。本当は青年が起きるまでずっと傍についていてやりたかった。しかし、ガーランドは青年の家を出たことになっている。青年が起きたときに、また戻ってきたと説明するのも憚られた。
 青年が目を覚ます前に、ガーランドは家を出ていった。今度は戻ることのないように、まっすぐコーネリアへ向かう。

「んっ、」
 ぶるっと身を震わせ、青年はゆっくりと目を覚ましていった。室内はほどよく暖かい。冷たい隙間風が室内に入ってくるのに、それに打ち勝つほどの火力で暖炉の炎は燃え盛っていた。しかし、暖炉の中の薪は燃え尽きようとしており、じきに室内が冷えてくる。
 青年は起き上がり、薪を数本暖炉に投入した。薪はメラメラと燃えていき、室内は暖かさを維持してくれている。
「っ、⁉」
 ふと、青年は我に返ったように周囲を見まわした。相変わらず隙間風の入ってくる家の壁と、僅かばかりの家具や生活品しかない室内だった。無意識のままに起きて薪を焚べたが、青年はここでひとつの疑問を浮かべていた。誰が暖炉に薪を入れてくれたのか。「夢、だったのか……?」
 手足を治療してもらったあたりまでは、青年も覚えている。だが、そこからの記憶は途切れてしまっている。熱に浮かされて、ガーランドに看病をしてもらう夢を見てしまったのか。青年はそう思い込むようにした。きっとガーランドは帰る間際に薪を入れていってくれたのだろうと。
「ふふ。変に律儀な男だ……」
 暖炉に置かれていた鍋を見て、青年の憶測が正解であったことに小さく微笑む。鍋に入っているスープはくたくたに煮込まれて、具材が一部煮溶けてしまっている。この火力では当然のことだったが、その当然を青年は知らない。青年は熱々のスープを皿に盛った。青年はスープをいただいた。身に沁みるような優しい味に、青年の心は穏やかになる気分だった。
 次にガーランドが訪ねてきたときに礼を伝えようと、すっきりした体調とともにこの寒さを凌ぐことにした。
 だが、青年の思いも虚しく、ガーランドがこの家を訪れることはなかった──。

 ***

 青年が倒れてから、少し日は経過した。寒さは本格的なものとなり、雪は大地を白く染めるまでになっていった。
 先日コーネリアの町で買い物をしてきた際に、青年はこのことについて尋ねていた。町の人たちは例年にない雪の量だと教えてくれ、それについては青年も大きく頷いたのだった。
「……しかし、これはいつまで続くのだろうか」
 茶葉に湯を注ぎ、青年はひと口飲む。ガーランドが訪れなくなったこの家は、どこか閑散としている。修繕が行われなくなったことで、家はますます雪の重みに耐えきれなくなっている。毎日屋根に上がって雪を下ろすが、完全にイタチごっこだった。積雪量が多すぎて、青年の慣れない雪の扱い方では完全に追いついていない。
 仲間たちとこの世界を旅をしていたとき、雪が舞う季節に青年はコーネリアにいなかった。別の大陸を旅していたために、コーネリアにも雪が舞い散る自然現象があることを知らないでいた。
 はらはらと舞い落ちる雪を手のひらにとり、青年は話に聞く冬の寒さを実感していくことになる。それは、聞いていたものと異なり、コーネリアやその周辺は予想外の積雪に襲われてしまったからだった。例年はここまで雪は積もらないのだと、青年は町で教えてもらっている。
 雪が比較的落ち着いている日に、青年はできることを行っていた。薪割りに水汲み……湖水が凍っているために、砕いて持って帰ってきている。これなら必要分を暖炉で溶かして使えるから、毎日水汲みする必要が減っていた。これだけは青年の負担が軽減されており、自然に感謝するところだった。
「今日はもう、休むか……」
 この日もガーランドが来なかったことに、青年は安堵と不安の入り交じった溜息をついた。ガーランドが来ないのなら、コーネリアで騎士団の任が忙しいからか、遠征に出ている可能性がある。元気でいるのなら青年としても嬉しいものだった。
 だけど、妙な胸騒ぎがする。ガーランドが病気になっているのではないかと、だから来ることができないのだと、不安面も同時に膨れていた。けれど、これ以上踏み込まないように決めたのは青年のほうだから、ガーランドの様子を見に行くことは一切しなかった。
 明日、雪が落ち着いていたら、コーネリアまで買い込みに行こうと決め、青年は早めに身を休めた。

「──……っ」
 雪がちらちらと舞っているあいだは、幻想的で美しい自然現象だと感心していた。吐息が白くなることにも驚いていたのに、目の前の風景一面が銀世界になってしまい、青年は衝撃を受けた。
 前日まではさほど雪は降っていなかったのに、青年が身を休めている夜間にかなり積もっていたらしい。翌朝になって扉を開けるのも苦労するほどの積雪を現実に見て、青年は雪かきの必要性を感じてしまった。
 他人事のように聞き流さないでよかったと思いながら、青年は天井を眺めた。一番危険なのが、屋根の崩落になる。雪の重みで潰されてしまわないか……それだけを心配し、青年はまず屋根の雪下ろしからはじめようとした。
 しかし──。
「っ、⁉」
 木の板で補修し防水布を張っただけの屋根では、この大雪の耐久に耐えきることはできなかった。青年が外に出たその瞬間、雪の重みで補修した木の板は割れ、防水布と一緒にすべて家の中に落ちていった。
「……」
 慌てて戻った青年は、家の中の惨状に言葉を失った。室内は雪でいっぱいになっており、崩落した木の板はいくつも雪に刺さっている。防水布は粗末な寝台の上に落ちていて、周囲は雪だらけになっていた。これでは身を休ませることもできない。
 それより、暖炉も、室内に置いていた薪の束も雪で濡れてしまい、使いものにならなくなっていた。
「これでは……当面は使えないな」
 これからの季節をこの家で過ごすには、崩落した屋根と部屋いっぱいの雪をどうにかしないといけない。だが、青年の力で現状ではどうにもならないので、冬のあいだは別の場所に移ろうと判断をした。荷物をまとめ、早急に家を出る。
 青年は黒の上下に白い腰布をまとい、町の人からもらった猫耳のケープという軽装だった。魔物や肉食獣などから身を守るためのものとして、一振りの片手剣だけを持っている。
 雪がなくなり、もう少し暖かくなれば、ここに戻るかもしれない。だが青年はここで、もうひとつの可能性も考慮に入れている。冬のあいだだけ離れるつもりでも、行き着いた先──おそらく目指すエルフの隠れ里──で、もしかしたら永住を決めてしまうかもしれない。元々青年はエルフの隠れ里に行くつもりだった。たまたま誰からも捨てられたこの家を見つけ、住みついたにすぎない。
 目的としていたガーランドの様子を探ることもできたのだから、青年としてはこの地に留まる必要は、本来ならばなくなっている。何度も出ていこうとは考えるものの、まだここに留まっていたのは、この家に「一緒に過ごす」ことを約束したためと、時々ガーランドが訪ねてきてくれるからだった。
 しかし、その家が今は使えなくなり、青年がいなくなったのなら……騎士団の務めのあるガーランドなら、それ以上追いかけてくることもない。ガーランドが来なくなっているのだから、なおさら思えた。青年はどこか憂いのある表情をしながら、雪で覆われた大地を踏みしめるように歩いていた。
 雪かきをしないと歩けないほどの積雪量に、以前旅をしたときに入山した氷の山を思いだす。あの山は氷に覆われていたが、脚をとられて歩きづらかったのは雪でも変わらない。青年の脚は雪のせいで氷のように冷たくなっていく。凍傷になるのも時間の問題だと悟り、改めて自然の恐ろしさを知ることになった。霜焼けでガーランドがあれほど怒るのもわかる気がした。
 エルフの隠れ里に向かう前に、青年はどうしても立ち寄りたいところがあった。戻ることがないかもしれないと思えば、必然的に脚は向かってしまう。

 青年の行くところなど、結局は朽ちて崩壊したあの建物しかない。雪が降り積もったその建物は、これまで以上に生きとし生けるものの侵入を拒むかのように存在している。
 雪で覆われて荘厳な雰囲気をまとう建物に到着した青年は、雪が舞い散るなかで身を震わせながら崩壊したその建物や周辺を眺めていた。
「……はじまりも終わりも、やはり、ここなのだな」
 少し寂しそうにひと言呟いた青年は、意を決したように建物の中に入っていった。
 脚がじんじんと痛んでくる。脚の凍傷は本格的なものとなっみたいだった。雪の降らない屋根のある場所で少し休んでいきたくて、青年は脚を引きずるように動かして進んでいく。
 前はこの建物もここまで冷え込んではいなかった。しかし、雪が積もるほどの今は、神殿内も凍えるように寒い。青年は躰を寒さで震わせながらも先に進んだ。

 ***

「──……これ、はっ」
 ガーランドは青年の朽ちた家に到着して、まず惨状に唖然とした。目を見開くほど驚いて、声を出すことも憚られてしまう。それほどの状態であった。家は屋根から完全に潰れてしまっている。扉を開けたガーランドは、室内の状態にも愕然としていた。家の中にまで雪は降り積もっている。
 屋根の崩落が直接的な原因となっているのだが、そのせいで青年が使えるように修繕していたはずの暖炉も、寝台も、すべて雪で隠れてしまっていた。
 そして、この家の主となったはずの青年がいない。近くに避難しているのかと、ガーランドは周辺を探しまわった。
「何処へ行ったのか……」
 吐息が真っ白になるほどの凍てつく寒さのなかで、青年が遠くまで行くとは考えられなかった。青年は猫耳のケープ以外で防寒着など持ってはいないはずだから、もしかしたら購入するためにコーネリアに向かったのかもしれない。考えたガーランドはコーネリアに向けて歩みだそうとした。
「む、これは……」
 今にも降雪で消えてしまいそうな足跡が、転々と雪のなかに残されている。ガーランドが発見できずにいれば、あと数刻で完全に消えてしまっていたかもしれない。そんな状態の足跡および雪をかき分けた跡を見つけ、ガーランドは雪のなかを急ぎ足でたどっていく。早くしないと、今の雪ではすぐに消えてしまう。
 青年の向かった先はコーネリアではなかった。鬱蒼とした森の奥へと進んでいる。別の拓けた土地へ向かったのかとガーランドは訝しんだが、着いた先を見て驚愕した。そこは誰からも放置されている……カオス神殿と呼ばれる朽ちた建造物であった。
「このような場所に、なにゆえ……」
 それより、青年ががどうしてこの建物を知っているのか。朽ちて危険であるからと、コーネリア国王がしっかりと施錠して、建物内に入ることすら禁じていたはずなのに……。ガーランドは考えながら先へと進む。神殿内で雪の影響のない回廊は、青年の足跡が残されていた。点々と一定の間隔で落ちている濡れた足跡は、青年がこの場を訪れてさほど時間が経っていないことを表している。
「……ここに居ったか」
「ガーランド」
 謁見の間と呼ばれる豪奢な赤い絨毯のある大広間の玉座の前に、ガーランドが探していた青年は座り込んでいた。ひとまず安堵したガーランドは、奥にある祭壇がキラキラと輝いているのを見た。青年の無事を確認したガーランドは、次に祭壇へと向かった。
 祭壇の上には光り輝くクリスタルが置かれている。ガーランドはその輝きに覚えがあった。何処で見た? しかし、今は考える余裕すらない。玉座の前で青年が座り込んで立つこともしないのなら、それはすなわち、立つこともできない緊迫した状況であることが容易に判断できた。ガーランドはクリスタルを懐に入れ、すぐに謁見の間の青年の傍へと戻った。
「帰るぞ」
「どこに? 私には、もう……帰る場所は」
ガーランドは青年に手を差し伸べた。青年の傍に膝をつけ、視線を合わせる。ガーランドの体躯では見下ろすことが多いが、この青年も高身長ゆえに気を遣う場面は少なかった。
「これを……」
 ガーランドは身につけていた白銀の外套をさっと外し、青年の肩にかけてやる。ちらと青年を見下ろすと、ガーランドの白銀の外套を前で合わせて嬉しそうにしている。
 青年の僅かに見せる嬉しそうな表情を見るだけで、ガーランドの胸に芽吹くものがあった。
「儂と来い。此処に居っても凍えるだけであろう」
 ガーランドは片膝を床につけ、青年に手を差し伸べた。青年のアイスブルーの瞳を確認するように見つめている。
「──……っ、」
 これに青年はびくりと身を震わせた。ガーランドの黄金色の双眸は、膝をつけてくれたことで、青年と視線を交わし合うことができる。兜の隙間から映しだされる真摯なまなざしは、鋭利ながらも気高く澄んでいた。
 青年はガーランドの力強い双眸から眼が離せなくなっている。しかしそれも数秒のことで、ハッと我に返った青年は、誤魔化すようにガーランドの手をじっと見た。篭手で覆われてはいるが、武人の大きな手だった。
 けれど、青年はガーランドの手をとろうとしなかった。じっと見つめていたガーランドの手から視線を逸らし、瞼を伏せて俯いた。今のガーランドを、青年は直視できない。小さな声で囁いた。
「……おまえは私を忘れ、今を生きるがいい」
 青年を探してここまで来てくれたガーランドに、今の正直な思いを込めて告げたものだった。しかし、青年はガーランドに向き合うことができない。
「その〝今〟に、お前が居らぬと話にならぬわ」
「ガーランド?」
 しかし、ガーランドに言われた言葉は、青年の予想外のものであった。二の句を告げることができない青年は、唇を震わせてガーランドを驚愕のまなざしで見つめていた。
「もう、儂の傍から離れるでない。お前は──」
「ガーランド……」
 青年はゆっくりと立ち上がった。膝をつけていたガーランドも一緒に立ち、青年の腰に手をまわしてくる。
「っ、⁉」
 ガーランドにぐっと腰を寄せられた青年は、驚きながら見上げるように顔を上げた。そこには、片手で器用に兜を外しているガーランドの姿がある。青年が驚愕で涙に濡れた瞳を揺らしていると、兜を外したガーランドが見下ろしてきた。
 カランと床で音が聞こえたが、青年は視線を逸らすことなくガーランドを見上げていた。ガーランドは青年の腰に手をまわしたまま、空いた手でふわっと頬を撫でてくる。
 まるでガーランドの手のひらに包まれるようだった。左頬をガーランドの手のひらで覆われた青年は、頬全体を埋めるようにこてんと委ねた。大きな手のひらに頬を擦り寄せ、青年は気持ちよさそうに瞼を閉じる。ふふと小さく微笑んでから、青年はゆっくりと瞼を開けていく。ガーランドの熱い手のひらと同じくらい熱い視線を感じ、青年は顔を上げた。
「そのような顔もできるのだな」
「……」
 これまでの行動を見られていたことに、青年はむっと眉を寄せて無言の抗議をする。それでも、青年はガーランドが頬に添えた手のひらと、腰にまわされた手を振りほどこうとはしなかった。むすっとしていた青年は表情を戻し、ガーランドを見上げた。
 鋭利ななかにも気高さを宿すガーランドの真摯な黄金色の双眸は、青年を射貫くほどの獰猛さも秘めている。強いガーランドの視線に、青年は頬に手をあてられたまま眼が離せなくなっていた。互いの姿をそれぞれの瞳に映し、ふたりは時を忘れたように見つめ合った。
「今後、儂から離れるな。お前が何処かへ行くたびに、儂はこうして探さねばならなくなる」
「それは……困ったことだな」
 ガーランドから無理なことを言われ、青年は困ったように眉を少し下げていた。これでは、ガーランドから離れることはできない。それはつまり、ガーランドがどこかへ遠征に行くときも、場所によっては青年もついていかなければならなくなる。
 適度な距離を互いに保つことができるのなら、青年も快諾ができた。しかし、常時ガーランドの傍にいるとなると……話は異なってくる。このような話を受け入れることはできなくて、青年は断ろうとした。
「もう、儂に探させないと誓うか? それなら多少は赦しもできよう」
「……それも、困るな」
 青年は苦笑していた。ガーランドの言葉は言い方を変えただけで、内容はほとんど変わらない。青年は言葉を濁した。こればっかりは約束ができない。
 ガーランドの想いひとつで、青年の今後が大きく変動する。ガーランドに身を委ねたも同然ながらも、あやふやなことしか青年は言わなかった。……それしか、言えなかった。
「ならば、戻るぞ」
「っ、どこ……へ?」
「此処にいつまでも留まっておるわけにゆかぬであろうが。躰が冷えきっておるわ」
 青年から色よい返事がもらえたとは言い難いが、少なくとも拒否はされていない。そのことから同意と捉えたガーランドは、青年から両手を離すと、床に落ちたさっと兜を拾い上げた。素早く兜を装着し、青年の手を引いて、この謁見の間をあとにした。
 青年はガーランドの機敏な動きに呆気にとられていた。青年を逃すまいとするガーランドの貪欲な心が、はっきりと見えてしまう。ガーランドに見つけられてしまったことで──この時点で宿命の輪が廻ってしまったのだと。青年がガーランドを避けるようにしていたのに、結局は無駄なことになったのだと……小さな溜息を零すこととなった。
 それでも、青年はガーランドに手を引かれるまま、神殿をあとにした。ガーランドが青年との〝今〟を望むのなら、約束はできないが可能な限りは叶えてやろうと……そう前向きに考えるようにした。

 ***

「…………」
 青年は言葉を失っていた。ガーランドにどこへ行くのか問いても、答えてくれなかった理由がわかった気がした。青年の目の前にはコーネリアの王城の正門がある。ガーランドは門扉に立つ兵士と話をしていたが、すぐに青年の佇んでいるところへ戻ってきた。
 青年は理解したことを否定してほしくて、王城に指を向けておそるおそるガーランドに問いた。
「これが……おまえのいえ? 家、なの……か?」
「……誰も『家』などと言っておらぬ」
「……」
確かに。青年は考える。ガーランドはこれまで、青年に対して『儂のところ』や『儂のもと』としか言っていない。……早まった。青年は思った。王城の者で青年を覚えている者は皆無だろうが、心配はつきまとう。
「ここに……私も住む、のか? それはできない相談だ」
 それに、今となっては、青年は立場のない者も同然だった。王城での生活など、身分や経歴のないただの平民となる青年にできるはずもない。それに、今の青年は黒の上下に白の腰布、猫耳のケープの上からガーランドの外套で身を包んだ状態だった。鎧すら身につけていない青年を、誰が認めてくれるのか。
「すまない。先のことは反故にしてくれないか。私には王城での生活など無理だ」
 青年はこの場から去ろうとした。しかし、それはガーランドによって止められた。腕を掴まれた青年は、眼を丸くしてガーランドを見つめる。そのときに、青年の氷雪色の髪がふわりと風になびいた。
「っ、」
 周囲の真っ白に映る景色と、青年の素の氷雪色の髪色が同等に思え、ガーランドの胸は大きく弾んだ。ずっと気になっていた青年をようやくこの手にすることができたはいいが、このようなことで御破算にされたくはない。
「すまぬな……根無し草で。独り身を貫くと決めておったから、邸宅など持たずにこれまでを過ごしてきた」
「……」
 役職の都合上、屋敷や使用人、大切な人……そういった者を人質にとられてしまうといったことがないとは言えない。そのため、ガーランドは独りで在るべきだと……過去にすべてを捨てたのだと、ガーランドは青年に説明をした。
「──……」
 自分の知らないガーランドの過去を知り、青年の胸に宿すものがあった。ガーランドが望むなら、それがクリスタルも許してくれるなら、今だけ……もう少しだけ、行動をともにしてもいいのではないか。何度も考え、結局は答えの出せなかったことを、青年はやっと決断した。
「わかった。私もここに……。ただ、問題は」
 身分のないものを滞在させることなどを、王国としては許してくれるのか、だった。ガーランドの口添えがあったとしても、許されることではない。青年の不安はここにあった。
「構わぬ、行くぞ」
「……」
 急ぎだしたガーランドを見て、青年は訝しげにしていたが、その理由はすぐにわかった。ガーランドと青年の周囲には人だかりができている。ガーランドが見目麗しい青年と口論していると……噂が立ってしまったのか、聞きつけた町の人々が集まっていた。
 そのなかには、「あの青年は……」と言っている者もいる。青年がそちらへ視線を動かすと、何度も野菜や果物をくれた店の者だったり、生活必要品を分けてくれたり、安く譲ってくれたりした者たちだった。
 このコーネリアで染毛剤を購入するまでは、青年の髪が氷雪色であることを町の人たちは見ていたはずだった。青年が髪を赤く染めていることくらい、説明せずとも区画内で広まっている。知らなかったのは青年だけであり、そのことについて問わなかったガーランドも同様であった。
「これは、今後儂の……そうだな、伴侶として王城に入る。よくしてくれて、儂から礼を言う」
「ハンリョ……?」
「ガーランド様っ! まさか……っ⁉」
「これだけ美しいお兄さんなら、わからなくはないわねえ。ガーランド様、頑張って!」
 ガーランドが深々と頭を下げると、区画の見知った人たちは応援をするように、激励の言葉を次々に告げてくれた。青年だけが意味のわからない単語をぼそりと呟いている。
「……ただ、当面は儂の客人扱いになるであろうから、問われることがあればそのように頼む」
「ガーランド様の願いとあっちゃあねぇ、聞かないと!」
「……」
 わからない単語について首を傾げていた青年は、唖然としていた。ガーランドの言葉だけで、民はこう易々と動いてしまうのかと。ガーランドはそうとうこの町で人気があるようだと、青年は判断した。
 そして、思うこともあった。ガーランドにここまでの人気があるのなら、青年が近くもなく遠くもない位置で見守る必要はない……と。やはり折を見て、ガーランドと離れてしまおう……と、青年はこっそりと決意を深めた。
 そうして、青年はガーランドに連れられて王城に入ることとなった。

 

 Fin