望む者、望まざるもの

                 2022.8/06

 誰も居なくなった荒れた世界にある神殿の壁に、相対するふたりの影が映っていた。壁に設置された燭台に立てられた蝋燭の炎は、僅かな風の動きにも揺らめいている。そのせいで石壁に映るふたりの影も揺らめいていた。
 ふたりは互いに剣を構えていた。ひとりは秩序の女神のもとで光の加護を受けたウォーリアオブライト──ウォーリアと呼ばれている名を誰も覚えていない青年と、もうひとりは混沌の勢を束ねる猛者の異名を持つこの世界の真実を識る男であった。
 ふたりは互いを見据え、それでも一歩も動かなかった。動いたほうが互いの待つ武器に胸を貫かれる──。それを察することができるほど、互いは殺気を含んだまなざしで相手を睨むように見ているし、また視線を逸らすこともしない。緊迫した状況は長く続いた。
「ウォーリアオブライト……光の戦士よ」
 巨剣を構えた猛者──ガーランドは、青年に声をかける。抑揚のない、とても低い声だった。その声に青年はぴくりと反応をした。しかし射貫くようなまなざしはそのままで、ガーランドの兜の奥に映る黄金色の鋭利な双眸だけを捉えている。
「この世界はもはや儂と貴様のみ。どちらの命が潰えようとも輪廻は巡る。ならば──」
「──っ、」
 青年は息を呑んだ。返答できない。視線で射殺すようなまなざしで睨んでいた者が、ここにきてどうして心を乱すようなことを告げてくるのか。青年は憤慨した。あり得ないし、誰も望まない。そのような理不尽がまかり通る世界なら、青年は最初からここまで来ることはしなかった。否、それでも青年は行っただろう。女神を欠き、仲間を失ってでも──。
「それは……できないことだ。ガーランド」
 青年は否定した。それでは、これまで失われてきたものが、本当の意味で無になってしまう。青年は剣先をガーランドに向けた。
 青年だけが生き残った世界で、こうしてガーランドと対峙する。初めて会うはずなのに、見覚えのある男だと……青年は違和感すら抱かなかった。初めて会うはずなのに、男の名を知っていることにも。
「ふん。貴様なら、そう言うと思ったわ」
 青年が否定することを想定済みだったと言いたげに、ガーランドは手に持つ巨剣の柄をぐっと握り、青年と同じように剣先が向くように持ちなおした。
「……」
 先の言葉は、まるで青年の意志を聞きだすためのもののように思え、ガーランドに向けていた剣先を今度は天井に上げた。瞳を閉じて剣礼を行う。ここが戦場となること、目の前の男とこれから死闘を繰り広げることへの祈りにも近いものだった。
 男の甘言に惑わされないように、青年としても気をつけるつもりだった。だが、ここで青年はひとつの疑問を抱いた。
……この男は、こういった惑わせるための言葉を使ってきただろうか。
 青年の『識る』ガーランドは、非常に実直で騎士然としている。宿敵でありながら、信頼のおける男だと青年は思っていた。少なくとも言葉巧みな策を弄してくる男ではない。かといって、偽物が化けているという可能性も限りなく少ない。
 ということは、これも男の本質として、青年が知らなかった一面となる。相当頭のいい男である、と。青年は記憶の上書きをするように、頭に叩き込んだ。

 一定の間合いを保つように、ふたりはじりじりと少しずつ動いては様子を窺った。下手に動いたほうが攻撃を受けてしまう。わかっているからこそ、互いに牽制を繰り返していた。だが、これでは体力と神経をすり減らす行為でしかない。
 ふたりは同時に構え、同時に剣を繰り出した。剣が交わる澄んだ金属音が神殿内に大きく響く。
 ガーランドは巨剣を振り下ろしてから素早く身を翻し、青年の剣を躱した。青年の持つ宝石の埋め込まれた剣は細身でありながら、ガーランドの重く強い剣撃を受け止めても剣身が砕けることはない。しっかりとした造りの宝剣は、青年の持つ身体能力すら高めている。
「ふん」
 ガーランドが重心を乗せた一撃を食らわせても、青年は盾で弾き返した。しかし、弾いたと同時に青年は衝撃でうしろへ吹き飛ばされた。受身をとるように空中で一回転した青年は、その場にすとんと膝をつけて着地した。衝撃を受けた際に飛ばされた青年の長い角のついた兜は赤い絨毯の上に落ち、ころんと転がっている。
「……」
 青年はここで違和感のようなものを胸に抱いた。いつものガーランドとは異なるように思える。どうしてそのように考えてしまったのか、青年に説明はできない。ガーランドに戦う意志はあるようだが、どこか不自然だった。まるで、此度の勝負の先にあるものを、すでに見据えているような──。
「──……っ、⁉」
 青年に衝撃が走る。先のガーランドの言葉──。それを青年は思いだした。青年は確かに否定したつもりだったのに。いつの間にか、青年はガーランドの申し出に協力していたことに気づいた。ガーランドと相対すればするほど、それはこの男の望みを叶えることになってしまう。

『この世界はもはや儂と貴様のみ。どちらの命が潰えようとも輪廻は巡る。ならば──』

──儂の胸を、貴様の剣は貫くことができるか?

 ガーランドはそのように青年に告げてきた。それは、つまり『お前のその手で、儂を殺してくれ……』と。言葉の裏に隠されたガーランドの意図することに気づいた青年は、剣と盾をその場に落とした。
 ガーランドはこの世界を終わらせるつもりなのだと。ガーランド自身を手にかけられる者を、こうしてずっと求めて待っていたのだと──。
 すでに居なくなった秩序の女神と、世界を崩壊させようとするカオスと。カオスを滅してこの世界を救うことが、女神の望んでいたことであったはずなのに。輪廻の巡るこの世界を、ガーランドが終焉を望むのなら、青年はどうすれば──。
「どうした? 此処で儂と決着をつけるのではなかったのか」
「そうだな。……私としたことが。今度こそ、おまえを!」
 青年は前を向かねばならない。ガーランドの望むことを叶えるためには、それを行うためには……世界に反旗を翻すことになる。それは叶えられないことだった。どうしてそれをガーランドが望むのか。問いたいが、訊いたところで青年は聴きたくなかった。耳に入れてしまえば、青年自身も張り詰めたなにかが崩壊してしまいそうで……恐怖を感じていた。
 それに、ガーランドと決着をつけるなら、その望みを嫌でも叶えることになる。それでいいのではないか。考えが甘いかもしれないが、青年はガーランドをも救うつもりでいた。
「それがッ、甘いと言うのだっ!」
「──っ、」
 青年の考えは完全にガーランドに見透かされていた。ガーランドは巨剣を掴み、青年に猛攻をしかけてこようとする。一撃を受けてしまえば、吹き飛ばされるどころではない。全身の骨を粉砕され、臓器は確実に損傷してしまう。身を躱すほうが得策と思われた。だが、青年は剣を構え、ガーランドの剣撃を正面から受けることにした。
 青年は剣を突き出すように前に出した。ガーランドの巨剣が迫ってくる。紙一重で躱したつもりであったが、青年の胸の装甲を巨剣が貫いた。同時に青年の剣もガーランドの鎧の継ぎ目から胸を刺し貫いている。ふたりは互いの胸を貫いてもなお、視線を逸らすこともせずに見据え合っていた。
 ごふっ、先に吐血したのは青年のほうだった。細身の剣身で胸を貫かれたガーランドより、巨剣で胸全体を刺された青年のほうが身の損傷の度合いが大きい。だが、心臓を刺されているガーランドも、立っているのがやっとに近かった。睨み合っていたふたりは同時にその場に崩れ落ちた。ふたりの足元には大きな血溜まりができている。もう、ふたりとも助からないことは見てわかることだった。
「愚か者が……ぐっ、」
 それでも互いの負傷状況、そして鎧の装甲面から、ガーランドのほうがいくばくかの命の猶予が残されている。ガーランドは青年に恫喝しようとした。……最後まで怒ることすらできなかったが。
 ガーランドが青年の身を起こすと、もう事切れる寸前であった。この出血量では無理もない。それにガーランド自身もじきに命が失われてしまうという自覚があった。
「これが、おまえの望んだことなのだろう──?」
愚かなのは、おまえのほうだ……。そう言って、青年はガーランド掴みかかるようにして、勢いよく身の上にのしかかった。互いに瀕死──しかも、青年は命の失われる直前の状態であるはずなのに。どこにそのような力が残されていたのか、青年にもわからない。
 死の目前であった青年から体当たりのような攻撃がくるとは、さすがにガーランドも予測はできない。ガーランドは躱すこともできず、血溜まりのできた絨毯の上に背をつけることになった。
 青年はガーランドに馬乗りになると、口元から下を真っ赤に染めた状態で見下ろした。それから身を屈め、ガーランドの兜に手をかけた。
「きさ……まっ、」
 ガーランドが察するより早く、青年は最後の力を振り絞って漆黒の兜を強引に外した。ブチブチッと留め具のちぎれる耳障りな音と一緒に、鮮血の付着した兜は青年の手の中に収まった。
「っ、」
 青年は驚愕した。眼下にあるのは、知らないはずなのに知っている顔がある。これがガーランドの素顔なのだと判明すると、青年は瞳を大きく見開かせて両手で頭を押さえた。カラン……ガーランドの頭のすぐ近くに兜は落ちた。青年が頭を押さえるために、兜を手放したからだった。
「おまえのその顔……そうか、だから私は」
おまえを知っていたのか──。いつか、どこかで見たことがある。いつ見たのか、その記憶を青年は宿していない。それでも、心が憶えていた。きっと何度も見てきたのだろう。青年が浄化を繰り返したその回数の分だけ……。
「ふん……満足したか?」
「できるわけが……ない。おまえはすべてを知っていて、どうして──」
 頭を押さえたまま、青年はぶんぶんと何度も左右に振った。しかし脳が貧血を起こしたのか、青年の躰はぐらりと揺れた。青年は片手で顔を覆うように押さえ、もう片手は下にいるガーランドの胸にあてた。漆黒の鎧は互いの血液で赤黒くなっている。
「死にゆく貴様が……識る必要のないことよ。知ったところで、また記憶を消されるのだからな」
「だがっ、それで──」
 胸にあてていた手がずるっと滑り、青年は最後まで告げることなくガーランドの胸の上に倒れ込んだ。ぐしゃっと嫌な粉砕音が神殿全体に響く。
 ガーランドはこの音の正体に気づくまで、少し時間を要した。ガーランド自身も出血が酷くて動くこともままならないためで、それでも青年が身動きひとつ行わないことに訝しんだ。そっと顔を上げ、そのまま吃驚する。
 青年はとどめ刺すこともせず、ガーランドに馬乗りになった状態のままで息絶えていた。先の粉砕音はガーランドの胸の装甲で、青年の頬の骨が砕けた音だった。青年の美しかった顔はいびつに歪み、ガーランドの胸の形に沿って頬が曲がっている。
 血でまみれた鎧に手を滑らせたわけではなく、言葉途中で青年自身が事切れてガーランドの上に倒れたのだと……まるで抱きしめてくれているような状態で亡骸と化した青年に、ガーランドは大きな溜息をついた。
「愚か者ではないか……。よりにもよって儂の上で、このような体勢で命を落としよって」
これでは、儂も動けぬではないか……。口では悪態をついてはいるが、ガーランドも動くつもりはなかった。ガーランド自身も血を流しすぎてじきに死ぬ。それがわかるからこそ、僅かに残された最期の時間を有効に使おうと、上に乗ったままの青年をもっと近くに感じられるように引き寄せた。
 互いの血液の滑りがあるため、青年の躰は労せずしてガーランドの近くに寄せることができた。青年が生きていれば、互いの息遣いを感じるほどに近づけ、落とすことのないようにしっかりと抱きしめる。
 まだ温かい青年の、残されたぬくもりを最期まで感じながら……ほどなくしてガーランドも眠るように逝った。
 結果としては、青年の望んだものとは違っていた。だが、ガーランドは満たされた気分だった。己を殺してくれる存在が、ようやく現れたことに対して──。
 ただ、青年が浄化を受けることになるので、また輪廻は繰り返されることになり、此度の記憶はふたりから消されてしまうことになるのだが……。

 ガーランドの腕は事切れてからも最後まで青年を離すことはなく、神竜が降りてくるまで強く抱きしめたままだった──。

 Fin