夢を見せて - 1/4

               2019.11/28

 コーネリアの王城から北西に存在する神殿は、長く捨て置かれていた。ところどころ朽ち果て、石壁には亀裂が生じている。崩落した天井からは陽光が射し込み、この神殿の内部まで明るく照らしていた。石畳には草が生え、外壁は蔦で覆われている。
 おそらくなにかを祀っていたのであろうその神殿は、外見もだが、周辺の森も荒れ果てていた。突如現れ出た魔物は好きに闊歩し、先住していた動物たちを貪っていった。そのために神殿の周囲の森の食物連鎖は崩壊し、魔物しか住まない森へと変貌していった。
 そんな荒れた森と神殿は、いつしかコーネリアの住民たちも怖れを抱くようになっていった。というのも、その森に巣食う魔物たちは、コーネリアの周囲の森にまで勢力を及ぼしていったからだった。
 やがて、魔物を統率する力を持ったものが現れた。コーネリアの住民たちはますます怖れ、その統率する魔物を〝カオス〟と名づけた。しかし、不思議なことに、〝カオス〟の姿を見たものは誰もいない。存在しているのか、していないのか。それすらわからない〝カオス〟の存在に、周辺に住まうものは恐れおののいた。
 いつしか神殿と周囲の森は〝カオス神殿〟〝混沌の森〟と呼ばれるようになっていた。

 これはまだ、光の戦士と呼ばれる青年が現れる、ずっと──
……そう、ずっと前のこと──。
 光の戦士の伝説は、このコーネリアにも伝わっている。いるはずのない光の戦士の存在を、住人たちは信じていた。この世界を守った、光の加護を受けた青年の存在を──。
 人々は口々に伝え、やがて大きなおとぎ話として成り立つようになっていった。口承により伝えられ、紙には一切残されてはいない。それでも、忘れられることはなく、語り部たちによって長く伝えられてきた。
 そして、このおとぎ話には、もうひとりの男が登場する。その男が、ガーランドと呼ばれる、コーネリアで騎士団長を務めるまだ若いひとりの男だった。
 まだ年端のいかない若い青年を騎士団長に指名することに、騎士団ではおおいに揉めたと聞く。それでも、ガーランドを騎士団長へと反対する者は、その実力を見ただけで腰を抜かしていた。
 というのも、ガーランドはその恵まれた体躯以上に、魔法にまで精通していた。特に地水風火に関しては、精霊を使役し意のままに操ることができる。
 これには国王含め、家臣の皆が驚いた。どれかひとつ……なら、宮廷の魔道士でもできる。しかし、それが四つ。しかも、ガーランドは同時に使役していた。
 このような男を、コーネリアとしては見逃せなかった。反対する者は国王の命令により、厳しく罰せられた。そうしてガーランドは、異例の若さで騎士団長に抜擢されることになる。そして、ガーランドは見ることになった。これまでに誰も見ることのなかったカオスを──。

***

 混沌の森に〝カオス〟が現れるようになり、かれこれ十五年が経過した。このあいだに、騎士団はなにもしてこなかったわけではない。国境警備に力を入れ、近隣諸国とも協力して討伐隊を向かわせた。……結果は、散々たるものではあったが。
 誰も見たことのない〝カオス〟の存在を唯一知るガーランドだけが、討伐隊の頼みの綱となっていた。騎士団長としていつも先導する傍らで、ガーランドは巨剣と精通する魔法を頼りに魔物を討伐してきた。
 人々はそんなガーランドをずっと見てきた。古い者になると、歳若かったガーランドが騎士団長に任命されるその前から知っている。まだ青年だったガーランドも、そろそろ髪に白いものが混じる年齢に差しかかっていた。
『ガーランド様は、どなたか娶らないのですか?』
 街の権力者は、こぞって娘や身内をガーランドに紹介しようとした。それだけではない。国王からも近隣国の王女や、身内にあたる高貴な女性を紹介された。しかし、ガーランドはすべて断った。
『まだ魔物がはびこる危険な状態で、どうして世帯など持つことができようか』
 真面目すぎるガーランドの返答に、誰も声を発せなくなった。高潔な騎士団長として孤高を貫くガーランドを、人々は崇め始めた。
 だが、ガーランドはそれを不服とし、国王にまず進言をした。
『自身は崇められるほどの器など、持ち得てはおらぬ』
 どこまでも真面目で一本気なガーランドに、国王も街の権力者もおおいに感嘆した。そうして、ガーランドの意図せぬところで、人気はますます上昇していった。
 しかし、実はこれには理由があった。今の危険な状態で、世帯を持つことには確かに躊躇する。しかし、ガーランドの力をもってすれば、できないわけではない。だが、それ以上に、ガーランドには世帯を持たない理由があった。

***

 いつのころからか、街では混沌の森に白い魔物が現れると噂されるようになっていた。姿は誰も見たことがない。ただの憶測にすぎない。それなのに、白は断定されていた。というのも……。
「またか……」
「ガーランド様、どうされましょう?」
 どうやらこの地を目指し、行商に訪れた者たちが被害に遭ったようだった。テントを設営し、夜を過ごしていたところを襲われたようだった。
 ガーランドは騎士団を率いて、その場に来ていた。そして凄惨な場を目の当たりにした。騎士団員の若い数人は、あまりの現状になにも言えずに固まっていた。
「どうもせぬ。早く捕えぬと」
「はっ」
 ガーランドの指示のもと、駆けつけた騎士団は生き残りの者たちを次々に保護していった。その者たちから口々に訴えられた。
『白い魔物に──』
 このようなあやふやな情報を、騎士団としては鵜呑みにはできなかった。しかし、保護した者のすべてが口を閉ざし、これ以上なにも言おうとしない。〝白の魔物〟という断片的な単語を頼りに、騎士団は周辺を捜索していった。だが、該当するような魔物は見つからなかった。

 そんなある日のこと。
 ガーランドは夜遅くに帰路を急いでいた。早く戻り、手に入れた魔道書を読みたい。逸る思いを胸に抱き、で足を動かしていた。しかし……。
……誰か居る?
 街の外れに佇む者がいる。このような遅い時間帯に、宿もとることもしない。旅の者だろうか? ガーランドは考えた。しかし、目撃してしまった以上、さすがにこのまま通りすぎるわけにもいかない。ガーランドは声をかけた。
「旅の者か? 宿ならこの向こうの路地を曲がれば〝INN〟と書かれた看板があるはずだ」
 ただの親切心で声をかけたつもりだった。しかし、旅の者らしき人物は、ちらりとガーランドを見つめて小さく微笑んだ。
「……っ、」
 その者は男性だった。少なくとも女性ではない。それなのに、優艶に微笑んでくる。ガーランドの心はどくりと高鳴った。
……男性だろう? 儂はなにを血迷っておるか。
 ガーランドは目の前の旅の者から目が離せなかった。様相はとてもみすぼらしい姿をしている。だが、埃と泥にまみれた鎧の色は美しい青をしていた。
 しかし、身に着けているものは汚れているだけで、その身を綺麗にしてやれば相当のものであると容易にわかる。この青年には街の住人とは違うなにかを、ガーランドはひしひしと感じていた。
 青年はとても美しい外見をしていた。鎧を身にまとっていなければ、女性としても通じるくらいのものだった。躰の線はどこか細い。痩躯……まではいかないが、もう少し肉をつけてもよいかもしれない。
『……』
 なにも言わずに、青年は微量な笑みだけを浮かべている。どこか神秘的で幻想的にも映るこの青年に、ガーランドは訝しみつつも魅入ってしまっていた。

 サアァ……
 風が薙ぎ、厚い雲で翳っていた月が顔を出した。今宵は見事なまでの満月の夜だった。淡い月の光は、街灯すらない街道を明るく照らしている。
……これほどまでとは。
 なにもない真の闇のなかでは、ガーランドの夜目をもってしても、青年の薄汚れた青の鎧の色しか映さなかった。それがどうだろうか。月明かりに照らされた青年は、幻想的な白の髪を持っていた。否、ただの白ではない。
 二本の長い角が天を突くような特徴的な兜を被っているのに、青年の髪の白は目を見張るものがあった。
 それに、ガーランドが着目したのは、青年の紅く光る瞳だった。しかし、それも一瞬で、すぐに氷を模したような薄い青へと変化した。
……月の光の加減のせいか?
 髪の色以上に、虹彩の色が気になった。つい、まじまじと青年のアイスブルーの瞳を覗き込んでしまっていた。
 驚くことに青年もガーランドをじっと見上げて、見つめていた。嬉しそうに少しばかり表情を緩めて。不器用に笑むその表情に、ガーランドは虹彩以上に心を奪われていた。
『お前といると……落ち着くな』
 ぽつり、青年は洩らした。くすりと小さく笑んだ青年に、ガーランドの心はどくりと高鳴っていた。
「お前の瞳の色が変わったように見受けられたが?」
 ガーランドは問いていた。どうあっても気のせいではない。確かにガーランドは青年の瞳の色の変化を確認した。このようなこと、人間にできるはずもない。ということは、この青年は──。ごくり、ガーランドは生唾を飲み飲んだ。緊張が走る。背筋に妙な汗が流れるのを感じた。
『……』
 青年は口許に手をあて、少し思案していた。教えていいものだろうか、答えていいものだろうか。青年はたっぷり数十秒は考えていた。
「答えてはもらえないのだろうか?」
 ガーランドはなかば諦めていた。青年はじっとガーランドを見てくるだけで、先から無言を貫いている。このままでは時間だけが無駄に経過してしまう。ガーランドは判断した。

 月は翳る。まるで青年の様相を明確にガーランドへ教えるためだけに、その明るく淡い光を照らしたかのようだった。ガーランドは嘆息した。これ以上の問答は時間を割いてまで行なうものでもない。
「宿は先に言ったとおり、この」
『……ぅっ、』
「どうした?」
 青年はその場に蹲った。肩で大きく呼吸を繰り返す青年に、どこか不安なものをガーランドは感じていた。
 ガーランドは青年の隣に膝をつき、金糸雀色のマントの上から背をさすった。鎧があるので意味はないに等しい。それでも、ガーランドは青年の背をさすり続けた。
 やがて落ち着いたのか、青年は顔を上げた。美しい形の眉を少し寄せ、青年は言いにくそうに口ごもっていた。
『腹が減った……』
「は?」
 ようやく口を開いた青年から予想外の言葉を聞き、ガーランドの目は点になった。思わず間抜けな声を出していた。
『ここしばらく、なにも口にしていない……』
「馬鹿な」
ことを。言いかけ、ガーランドは口を噤んだ。
 この世界に生きるものは、なにかを体内に摂取しないと餓死してしまう。人間に限らず、魔物の類も同様だった。これに差分はない。肉体の大小、寿命の長短に関係なく、すべてが必要量に応じて等しく摂らなければならない。
『私は〝INN〟とやらに行く。……ありがとう』
 青年はにこりと小さな笑みをガーランドに向けた。そうして何度目かの踵を返し、そのまま歩みを進めていく。
「……待てっ!」
 ガーランドは青年の背中を呆然と見つめていたが、ハッと我に返ると青年を追いかけた。
 カラン……
『なぜ……?』
 驚いたのは青年だった。もう別れを告げた男が追いかけてきた。それだけなら、青年も驚かない。だが、ガーランドに抱きしめられている。その衝撃で、青年の頭から角兜が地に落ちた。澄んだ金属音をたて、兜はころりと整地された土の上に転がっている。
 抱きしめられながら、青年は考えていた。この男は初対面の者に抱擁できるほど、殊勝な心を持ち得ているのだろうか。青年が首を傾げていると、ガーランドはひと言だけ告げてきた。
「儂の元へ来い」
『……』
 ガーランドに力強く告げられ、逃げられないように手を繋がれている。青年は頬をほんのり朱く染め、こくりと無言で頷いた。

「移動するぞ、来い」
『……っ、どこへ?』
「この先に儂の住まいがある。当面は其処で過ごすがよかろう」
『しかし、私は……』
「……っ、」
お前は先ほど頷いたであろう。ガーランドは言ってやりたかった。なにをここで躊躇するのか。だが、青年の主張もわからなくはない。一時を過ごすのと、長き日を過ごすのとでは、わけが変わってくる。
 青年が頷いたのは、前者の考えがあったのだろう。おそらく、宿も。ガーランドの住まいで長く過ごすことになれば、少なからずの不安も生じる。ガーランドは考えを改めなおし、青年に向き合った。
『ガー』
「話はあとだ。来い」
 そのままガーランドに手を繋がれ、この場をあとにした。

***

『……ここは?』
「儂の住まいになる。儂ひとりで住んでおるから気兼ねする必要はない」
 青年は街外れの小さな小屋に案内されていた。室内を見まわし、呆気にとられている。
……随分生活感とやらに欠ける。
 まるで人が住むような部屋ではなかった。綺麗なのはテーブルと椅子程度で、あとは埃にまみれている。少し埃っぽい室内にガーランドは入り、暖炉の掃除を始めだした。
「すまぬな。これを掃除せねば使えぬでな……」
『……別に寒くはないが』
「湯を沸かすのにも使う。……これで使えるな」
 ガーランドは暖炉のなかから大量の灰を取り出すと、今度は薪と着火用の紙を押し込んでいった。
「──」
 青年は黙ってガーランドの詠唱するほのおの魔法に耳を傾けていた。青年の見ている目の前で、ぽっと着火用の紙に火がついた。すぐに薪に燃え移り、暖炉のなかでメラメラと炎を大きくしていった。燃えさかる炎のおかげで、室内はすぐに暖まっていく。
 ガーランドは暖炉の上に、水を入れたケトルを載せた。底の濡れたケトルはしゅうしゅうと音をたて、やがて静かになった。
「湯が沸いたら茶にしよう。儂は風呂の掃除をしてくる。薪がなくなったら、暖炉に投入しておいてくれ」
薪は其処だ。ガーランドに指さされ青年は部屋の隅を振り返った。薪は綺麗に積まれている。部屋は埃が積もっているだけで、よく見ると整然と整えられている。このことからも、ガーランドの几帳面さが窺えた。
『風呂? 掃除?』
「風呂も暖炉と同じでな。釜の灰を取り出さねば湯を沸かせぬ。……風呂くらい、入ったことはあるだろう?」
 ガーランドは嫌な予感をしていた。青年はまるでわからないといった表情を向けてくる。青年のきょとんとした顔は、ガーランドの心を鷲掴みにするには十分の威力を持ち得ていた。
『……私の顔になにかついているか?』
「そうではない。……聞くが、風呂はどうしておった? いや、身を清めるときはどうしておる?」
 心配げに見つけてくる青年に、ガーランドはちらりとだけ視線を下げた。無垢なアイスブルーに見つめられ、心が揺れ動きそうになった。
 ごほん、ガーランドは咳払いして揺れ動く心に叱咤した。
『身を清める? 必要あるのか?』
「は?」
 だが、青年からは予想外の言葉が返ってきた。兜の中でガーランドはまたしても間抜けな面を曝し、声を発していた。兜がなければ相当恥ずかしいことになっていたのだが、ここは幸運だったとしか言いようがない。ガーランドはホッと胸を撫で下ろしていた。
『風呂に入らずとも、私は身を綺麗に保てる』
「……」
……では、その汚れ果てた姿はなんだ?
 言ってやりたかったが、喉許でなんとかガーランドは抑えつけた。よくわからないが、この青年は風呂に入った経験がないらしいことは理解した。はー、ガーランドはまたひとつ嘆息した。
 とにかく、風呂の掃除を済ませ、早く湯を沸かしたかった。急がないと、暖炉に載せたケトルの湯が沸騰してしまう。
「とりあえず、儂は外に出る。なにがあっても外に出るでない。わかったな」
『……わかった』 
 納得したのか、できていないのか。ガーランドにはわからない。だが、青年の言葉を信じ、ガーランドは外へ出ていった。

 手早く風呂の準備を整え、ガーランドは部屋に戻ってきた。青年はガーランドの借りてきた光の魔法書を開いている。読めるのか? ガーランドは考えた。だが、青年は口許に手をあて、黙々と魔法書に眼を通している。時々唇が小さく震えているので、内容も理解していることがわかった。
「湯が沸いておるな。茶を淹れよう」
 青年に声をかければ、パタンと魔法書を閉じた。置いておいたテーブルの上に書を戻し、青年はガーランドを見上げてきた。少しだけ照れたような表情を浮かべている。
『……ありがとう』
 その表情に、ガーランドの心は揺れ動いた。このような表情をだせるのか、と。大きく嘆息し、ガーランドは慣れた手つきで手早く茶を淹れていった。なにかをして誤魔化す必要があった。この青年の存在はガーランドにとって、いろんな意味で毒にしかならなさそうだった。
「……入ったぞ」
 ガーランドは淹れた茶を青年に渡すと、自身も青年の向かいの椅子に腰を下ろした。ずずっと茶を啜る。青年の様子を窺えば、熱い茶は苦手なのか、口に合わないのか、飲む素振りは見受けられない。
「……口に合わぬか」
 可能性として高いほうを、ガーランドは口にしていた。しかし、青年はぶんぶんと大きく左右に頭を振った。ちらり、ガーランドを窺うように見上げ、申し訳なさげにポツリと洩らした。
「熱いのは飲めない……」
「そうか。ならば時間が経てば冷める」
 口に合わないわけではないようなので、ガーランドも胸を撫で下ろしていた。茶を飲み、ガーランドは席を立った。部屋の隅に置いてある箪笥の引き出しを開け、少し大きめの布を取り出す。それから、ガーランド自身のアンダーも一緒に手にした。
「熱くて飲めぬなら、今のうちに風呂へ行け。そのような乱れた姿で居られても見苦しい」
『……っ』
嘘だった。だが、そうでも青年に伝えねば……今の青年の姿はいろいろと危険だった。ガーランド自身が魅了されてしまいそうな蠱惑的な身なりをされていれば、間違いがおきてもおかしくはない。
 否、間違いを犯してもガーランドに非はない。そのような姿を晒しているのは、間違いなく目の前にいる青年なのだから──。
「さっさと行かぬか。喰らい尽くされたいか?」
『お前にそのようなことができるのか?』
「……ほう、そうきたか」
『お前こそ』
 冷たいアイスブルーをちろりと動かし、青年はガーランドを見据えてくる。威圧的なガーランドに物申せる者など、騎士団には存在していない。そのガーランドに畏れを抱く様子のない青年に、ガーランドはくくっ、嗤った。
「……本気で襲われたくなければさっさと行け。そのボロボロの服は処分するぞ」
『……なぜ?』
「明日にでも新しいものを買ってやる。とりあえず今宵は儂のもので我慢しろ」
『……』
 青年がなにも所持していないのは明白だった。青年はガーランドの外套しか手に持っていなかった。ボロボロの身なりを隠すこともせずにここまで来たのなら、手荷物などあるはずもない。ガーランドは半ば呆れていた。
『……すまない。では、風呂とやらを借りる』
「出たら髪の手入れをしてやろう」
 はぁ、ガーランドは嘆息していた。思わず苦笑を浮かべてしまう。どうやら、扱いの相当面倒くさそうな青年に感じたからだった。

『なるほど……』
……これが風呂というものか。なかなか気持ちのいい……。
 ちゃぽん、湯に浸かり、青年は考えていた。ガーランドの沸かしてくれた湯の温度は心地よく、身を清めることのない青年には初めての経験となった。
……水浴びでもここまで好くはならないのにな。
 くすりと青年は口角を上げていた。〝風呂〟に入る習慣はなくとも、水浴びくらいはする。青年はガーランドに言わなかった。黙っていることに青年は決め、含むように笑んでいる。
 浴室にの扉に、大男の影が映る。扉は半透明の硝子が使用されており、互いの姿が映し出される。青年は影の正体に気付き、扉に背を向けた。湯舟に浸かっているので、大男──ガーランド──には青年の後頭部しか見えていない。そのことに、風呂初体験の青年は知る由もなかった。
「あまり長く浸かっておると、のぼせるぞ」
 扉越しに声が聞こえてくる。ガーランドに声をかけられたことに、湯に浸かる青年は気付いた。扉のほうへ振り返ると、くらりと周囲がまわりだした。
『のぼせ、る……? おかしい、頭がクラクラす、る……』
 ガラリ
「……ッ⁉ おい、しっかりしろ!」
 青年は目の前で急激に変化していく様子を捉えることはできなかった。倒れそうになる青年が浴槽内で沈まないように、ガーランドはしっかりと抱きしめている。全身が湯で濡れることも気にせずに、ガーランドは青年の頬を優しく叩いていた。
「意識はあるか? しっかりし──」

***

「──、無事か?」
『……お前は』
どうしてここに? 眼を覚ました青年は、ここが浴室ではないことに気付いた。まだ頭は重く、気持ちも悪いし吐き気までしている。
「湯に浸かりすぎたな。儂が覗きにいかなければ、そのまま倒れておったかもしれぬ」
『……そうか、迷惑をかけた』
 躰が思うように動かない。首だけを動かし、青年はガーランドをじっと眺めていた。
 ガーランドの黄金色の双眸は優しく青年を見つめてくる。本当に心配してくれていたのが、青年にも理解できた。
 青年は瞼を閉じた。ひたいに冷たい布をあてられている。ガーランドがしてくれたものだとわかり、青年は少しだけ口許を緩めていた。
「まだ……つらいか?」
『苦しい。風呂に入る代償が、これなら……私は風呂に浸かりたくはない』
「……」
 ガーランドはどう説明したものか思いあぐねた。風呂に浸かって勝手にのぼせただけで、かなり大げさなのだが。初めての体験で苦しい思いをしてしまっているなら、それも仕方ないことなのかもしれない。
「ならば、儂とともに湯に浸かるか」
「お前と? 私は別に風呂など必要しな」
「長湯するほど気持ちよかったのであろう? それなら遠慮は要らぬ。ゆっくり湯に浸かり、身体の疲れを癒すがよい」
『……』
 美しい柳眉を顰め、青年は黙り込んだ。ガーランドに指摘されたことは、完全に図星だった。
「布が温くなったな」
『……ありがとう』
 ガーランドは青年のひたいにあてていた布を、冷たいものと交換してやった。気持ちよさげに綻ばせて礼を伝える青年に、ガーランドの心臓は一気に高鳴った。
 ガーランドの心臓は、とくとくとやかましい躍動を始めだした。理由はガーランドにもわかっていた。扱いの面倒だの、性別だの、そのあたりはどこか向こう側へ投げ飛ばしておく。
 せっかく芽生えたこの心に正直に、そしてこの想いは大切に育てよう。そう、ガーランドは考えたときだった。
 く〜
 なんとも可愛い音が青年から発せられた。なんの音がわからず、目を丸くしてガーランドは青年を見つめていた。
 青年の青白い顔はみるみる紅潮していった。ばっと掛布を頭まで被り、全身を覆い隠してしまった。せっかくあてなおした布は、枕の上にちょこんと取り残されている。
 ぷっ、嗤うところではないのだが、ガーランドは小さく噴いていた。
「なにか作ってきてやろう。お前の舌に合うものが見つかればよいがな……」
まだ寝ておれ。それだけを言いガーランドは青年のひたいから落ちた布を冷たいものと交換して、寝所を出ていった。青年は嘆息し、冷たい布にそっと手をあてた。ゆっくり、瞼を閉じていく。

『……なんだ、これは?』
「なにって? 食事だが?」
『……』
 青年は眉を顰めていた。当然だった。さほど大きくもないテーブルには所狭しと料理が並べられている。しかし、どれを見ても青年が口に入れられそうなものはない。
「口に合いそうにないか?」
『悪いが……』
 青年は申し訳なさそうに、断りを入れようとした。その瞬間だった。
 く〜
 間の抜けた音が室内に響く。一瞬、なにが起きたのか……ガーランドですら、判断はできなかった。
「……まさか」
『……うるさい。私は腹が減っていると、あれほど』
 くっ、ガーランドは口許に手をあてて小さく嗤った。大声を出してしまえば、青年は気まずさと羞恥からいたたまれなくなるであろう。ガーランドなりの配慮のつもりだった。
『しかし……悪いが、私は……』
「好き嫌い言わずに食え。なんなら……口移ししてやろうか?」
『なっ⁉』
 かああぁっ、青年の頬がみるみる染まる。思いがけない青年の感情変化に、ガーランドのほうも驚いていた。しばらくふたりは無言で目を離せないまま見つめ合っていた。だが。
『……そうまで言うなら食べてやろう』
「アレルギーとかはあるのか?」
『ない……はずだが』
 かたり、青年は着席した。ガーランドも同様に向かい側に座る。
 もう朝日が昇ろうとする早朝に、ふたり揃って遅い夕食を摂ることになった。手を合わせ、この地に豊穣をもたらす神に祈りを捧げる。ガーランドが自然に行なうものだからか、同じ習慣が青年にもあるのか。ふたりは黙って祈った。
「食うか。無理はするな」
『……無理をしないと口移しされるのだろう』
 ぱくり、意を決して青年は一番手元にあったニジマスの包み焼きを解して口に入れた。ハーブをふんだんに使用し、魚特有の臭みとクセを取り除かれている。ニジマスは元々クセの少ない部類の魚ではあるが。もぐもぐ……、青年が咀嚼していくのを、ガーランドはじっと窺っていた。口に合わない以上に、体質に合わなければ、それ以上に問題が生じるからだった。ごくん。青年は嚥下した。
『……初めて食べた』
 青年の様子から、少なくとも否定的ではないとガーランドは察した。眼を輝かせてニジマスを食べる青年に、ガーランドはじゃが芋の入ったスープを薦めた。
「これも食ってみろ」
『……これは?』
「じゃが芋と玉ねぎ、ベーコンしか入っておらぬ」
『……』
 青年はスープをひと匙すくいおそるおそる口内に入れた。青年の動きが止まった。
 青年の匙を持つ手がカタカタ震えている。ガーランドはぴくりと眉を動かした。なにか合わないものが入っていたのか、不安が生じる。
『……お前たちはこのような美味しいものを、いつも食べているのか?』
「お前は今までなにを食ってきた?」
 ガーランドは呆れていた。同時に嬉しさも込み上げてきた。気難しそうに見受けられるこの青年が、率直に感想を述べてぱくぱくと口を動かしている。相当腹が減っていたのか、作った食事はすぐになくなっていった。
「満足したか?」
『確かに食事は美味しかった。だが、これでは……』
「そうか」
 ふー、ガーランドは嘆息した。青年の言いたいことがわかってしまった。これまでの話を統合する限り、この青年は人間ではないと。腹は満たせても別の欲求を満たせない限り、本当の意味で満足することはないと。
 ふと、ここでガーランドに疑問が湧いた。この青年に名を聞いたか、と。頭を捻り、出逢ったときからを思い返した。何度思いだそうとしても、やはり青年の名をまだ聞いていない。
「名は?」
『……私に名はない』
「なに?」
 意外な返答に、ガーランドはぽかんとした。魔物の類にしても、種族間同士で呼び合う名前くらい持っているであろうに。ガーランドは口をはくはくと動かして、青年になにかを訴えようとした。呼気だけが口から出ても、肝心の言葉として出なければ意味はない。
 衝撃が大きくて言葉を失ったガーランドの代わりに、青年自身が答えていた。少し呆れた顔で、ガーランドをじっと見つめる。
『好きに……呼べばいい』
 名前など、この青年には不要のものだった。だから、名など必要ない。そう思って、青年は今まで生きてきた──。

 その報告が騎士団に入ったのは、夜では遅く、朝では早い時間帯だった。
『追い詰めていた吸血鬼を取り逃した。コーネリアを含む近隣諸国は、要注意願う!』